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风格
#日本流行
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

乐 队 名 KinKi Kids(近畿小子)

经纪公司 ジャニーズ・エンタテイメント

事 务 所 ジャニーズ事務所

成员档案

姓    名 堂本光一(どうもと こういち Domoto Koichi)

出生日期 1979年1月1日

出 生 地 日本兵库县芦屋市

血    型 B型

身    高 168cm

中 文 名 堂本刚

日 文 名 堂本剛(どうもと つよし Domoto Tsuyoshi)

出生日期 1979年4月10日

出 生 地 日本奈良市

血    型 AB型

身    高 166cm

乐队简介

近畿小子(KinKi Kids),是日本杰尼斯事务所旗下的双人组合。成员为堂本光一及堂本刚,于1993年8月6日组成。1997年7月21日正式出道。代表作有《硝子の少年》、《雨のMelody/to Heart 》等。

KinKi Kids(近畿(jī)小子)出道之前,曾以“W堂本”及“Kanzai Boya”名字出现。因为出生近畿地方而以“近畿小子”作为团体名称。他们虽然同是姓堂本,不过却没有任何血缘关系。KinKi Kids被誉为J家最具音乐气息的组合,他们在音乐上取得的成绩缔造了很多日本乐坛的传奇。除了

音乐活动之外,两人亦都活跃于主持综艺节目方面。特别是主持日本富士电视台节目‘LOVE LOVE 我爱你’的时候,因为得到吉田拓郎和坂崎幸之助(THE ALFEE)等著名音乐人的指导之下而开始了学习吉他。而且也因为这个节目的关系,能够和不同的资深音乐人合作,对他们其后的音乐活动有著很大的影响。另外,他们也各自演出电视连续剧及主持多个综艺节目等等,亦以个人身份活跃当中,刚用ENDLICHERI☆ENDLICHERI、244endli-x、 刚紫等身份进行音乐方面的solo,光一出演舞台剧《SHOCK》成为史上最年轻的座长。

团名由来

KinKi Kids由堂本刚(Domoto Tsuyoshi)、堂本光一(Domoto Koichi)组成,请注意三个K均为大写。

KK于1997年7月21日出道(专辑),1995~1996有上过MS唱《Friends》。

KINKI的意思是关西近畿,是两个人的故乡。 1993于SMAP的CON上宣布团名。

世界纪录

KK保持着连续32张单曲都在一周内登上ORICON冠军的吉尼斯世界记录。1994年他们只有15岁的时候已经在武道馆首次召开演唱会,成为登上武道馆舞台最年轻的艺人。

KinKi Kids是日本少数几个有资格常年在巨蛋举行演唱会的艺人,从1998年起,接替X-Japan每年都在东京巨蛋举行跨年度演唱会,2008年1月1日在‘We are φ'n39!! and U?’演唱会最后一场结束后,更改写单独艺人在东京巨蛋开唱场次最多的纪录(持续累积中)。2007年7月22日动员六万七千人在东京巨蛋举行仅限一天的十周年庆con,创下东京巨蛋单场表演最多观众纪录。(2008年末,KinKi Kids首度移师大阪举办单独的跨年演唱会。2009年末又重返东京巨蛋进行跨年演唱会。)

プロファイル

バンド名 KinKi Kids(近畿小子)

レーベル ジャニーズ・エンタテイメント

事 務 所 ジャニーズ事務所

メンバープロファイル

名    前 堂本光一(どうもと こういち Domoto Koichi)

誕 生 日 1979年1月1日

出 身 地 日本兵庫県芦屋市

血 液 型 B型

身    長 168cm

名    前 堂本剛(どうもと つよし Domoto Tsuyoshi)

誕 生 日 1979年4月10日

出 身 地 日本奈良市

血 液 型 AB型

身    長 166cm

バンド紹介

KinKi Kids(キンキ キッズ)は、堂本光一、堂本剛の2人で構成される男性アイドルデュオ。所属事務所はジャニーズ事務所。レコードレーベルはジャニーズ・エンタテイメント。略称は「キンキ」、「KinKi」。中国語表記は「近畿小子」。

ジャニーズ事務所にとって初のデュオ、そして初の関西(近畿地方)出身のグループであるなど何かと初が多い。2人とも同じ1979年生まれだが、学年(学齢)としては光一の方が剛よりも1つ上になる。また、2人の姓は同じ「堂本」だが縁戚関係はなく、全くの他人である。

KinKi Kidsの表記は「K」は全て大文字(KinKi Kids)。また、KinKiという単語は英語圏ではKinky(変態)に語感が似ているため、2人が自らネタにすることがある。“Ki”が3つ並んでいることにより、ファンクラブ名は「[Ki]×3」(ケーアイバイスリー)と命名。会員番号は1番が光一、2番が剛。

来歴

KinKi Kids結成

2人で活動するようになるまでの堂本光一については堂本光一#来歴、堂本剛については堂本剛#来歴も参照

1991年5月5日、それぞれ姉が送った履歴書がきっかけで呼ばれ、光GENJIのコンサートを観に来て横浜アリーナで出会った2人は、同時に事務所入りを決めた後も、同じ苗字ということで当初から揃って活動することが多かった。1992年8月23日、13歳の時に初めて『Myojo』の取材を受け、1992年11月号で“関西からきた新入生”として紹介される。

初めてのテレビ出演は近藤真彦をはじめ、少年隊や男闘呼組、光GENJIなどジャニーズ事務所の先輩が総出演したNHKの番組で、途中で突然機会を与えられ、自分の名前を名乗るというものだった。初めてのステージは光GENJIのコンサートで、光GENJIがまだ登場する前、客席の明かりもついている中、2人でステージの真ん中にバケツを持っていってその場で花火をするというもの。しかしその時、「絶対にこぼすな」と事前に言われていたにも関わらず水をこぼしてしまい、そのせいで光GENJIのメンバーが滑ってこけてしまったというエピソードがある。

主に光GENJIやSMAPのバックで活動していたが、正式なグループ名が決まる前までは、「ジャニーズ関西組」、「堂本ブラザーズ」、「W堂本」など様々な呼び名が使われていた。井ノ原快彦、長瀬智也を加えて4人で「ジパング」というグループを組むという噂もあったが、1992年12月31日放送の『第43回NHK紅白歌合戦』でSMAPのバックとして出演した際、2人で「KANZAI BOYA(カンサイボーヤ)」という名前で紹介される。そして、中居正広司会の『キスした?SMAP』第1回放送(1993年4月4日)にて、正式に「KinKi Kids」というグループ名が発表された。ちなみに2人共、グループ名に関してはもらった当時、「俺ら終わったな」と落胆したと話している。

1994年12月31日、日本武道館でファーストコンサートを行う。1996年10月には一気に5本ものレギュラーテレビ番組がスタートするなど、瞬く間にお茶の間に浸透。同年の『第47回NHK紅白歌合戦』では、事務所の先輩である近藤真彦のステージに応援ゲストとして登場、「ミッドナイト・シャッフル」の冒頭のサビをKinKi Kidsが歌うというサプライズ演出がなされた。

CDデビュー

1997年5月29日、ジャニーズ事務所がレコード会社「ジャニーズ・エンタテイメント」を設立し、その第1弾アーティストとしてKinKi Kidsがデビューすることが決定。赤坂にある豊川稲荷神社でデビュー報告会見が行われたが、デビューすることは本人たちにも前日まで知らされていなかった。発表後は会見映像が新宿駅東口前のアルタビジョンや渋谷駅ハチ公前交差点のアストロビジョンなど計5か所で流され、この一連のプロモーション費用は3000万円にものぼった。

1997年7月21日、シングル『硝子の少年』、アルバム『A album』の同時発売でCDデビュー。

共にオリコン初登場第1位を獲得、ミリオンセラーを達成した。『硝子の少年』はオリコン調べで売り上げ178万枚、ジャニーズ・エンタテイメント発表によると出荷枚数262万枚。オリコン調べによるアイドル歌手のデビューシングルの売り上げとしては、小柳ルミ子の「わたしの城下町」(1971年、134万枚)の記録を26年ぶりに更新し、1997年度のシングル売り上げ2位を記録した。また、1998年3月26日開幕の第70回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも選曲された。

シングル連続首位記録

デビュー以降に発売したシングルは全て、オリコンで初登場1位を記録。『硝子の少年』・『愛されるより 愛したい』・『全部だきしめて/青の時代』・『フラワー』の4作はミリオンセラーを記録し、出荷枚数ではデビュー作から11作連続で100万枚を超えている。そして2002年1月1日、東京ドームで行なわれたコンサート中に“デビュー以来シングル13曲連続オリコンチャート1位”の記録がギネスに認定されたことが発表され、ステージ上で認定証が公開された。ギネス社への申請は2001年5月10日に事務所により行われており、通常2年かかるという審査をわずか7か月で通過し、12月10日に認定を伝えるファックスが到着。12月24日にギネス社幹部のマイケル・ファルドマンが認定書を持って来日したが、このことは本人らにはコンサート開演直前まで伏せられていた。この記録は2002年2月28日発売の『ギネス・ワールド・レコーズ 2002 日本語版』に2ページにわたってカラー・写真入りで掲載され、日本人として初めて音楽部門でギネスブックに名を連ねた。また、今までギネスの音楽データは全英や全米チャートを基にしたものが多かったが、このことで「オリコンチャート」が世界標準として認められた証となったため、イメージアップに貢献したとして2002年5月2日にオリコンの垂石克哉社長から感謝状と記念のバスローブが贈られた。また、その後も2004年版で16作連続、2005年版で19作連続と更新され、2008年版では“デビュー以来25作連続初登場1位”として掲載されている。

2016年7月20日に発売した『薔薇と太陽』でデビューシングルから36作連続で初登場1位を獲得し、ギネス記録を更新した。

1990年代

1997年8月23日 - 24日、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のパーソナリティーを務め、光一は番組内の特別ドラマ『勇気ということ』の主演も務める。

1997年12月1日、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災へのチャリティー活動として1997年までにデビューしていたTOKIO・V6・KinKi Kidsが合体し、J-FRIENDSを結成することを発表した。活動期間は、震災発生当時の小学校1年生が義務教育を終える2003年3月まで。リリースしたシングル・ミニアルバムは、全て初登場1位を獲得した。

詳細は「J-FRIENDS」を参照

1999年12月31日には『第50回NHK紅白歌合戦』の歌の合間のコーナーでゲストとして「フラワー」を歌った。CDデビューを果たした1997年にもオファーはあったが、すでに大晦日の東京宝塚劇場で公演が決まっており事務所側が断っていた。以降も毎年年末にカウントダウンコンサートを行っているため、出演は果たせていない。

2000年代

その他

作詞作曲について

『LOVE LOVEあいしてる』では、吉田拓郎や坂崎幸之助(THE ALFEE)の指導でギター演奏に取り組み、また、多くのミュージシャンとの親交を深めるなどその後の自身の音楽活動に大きな影響を与え、シングル『好きになってく 愛してく』では日本のアイドルグループとしては初めて自らの作詞・作曲による楽曲でのオリコンランキング1位を獲得した。

KinKi Kids名義で発表しているシングルやアルバムにもそれぞれのオリジナルソロ曲や合作が収録されている。しかし各々が本格的にソロ活動を開始しソロデビューした後は表現の場をそちらに移行したため、KinKi Kids名義では主に2人の合作のみ発表されている。

コンサートのMC

KinKi KidsのコンサートはMC(喋り)が長いことで有名であり、観客は座って聞くのが常。話す内容は事前に何も決めず、2人で打ち合わせたりはしない。時には1時間半を超えることもあり、長過ぎて事務所スタッフに怒られたり、コンサートマスターの吉田建に(冗談ながらに)文句を言われたりしたこともある。

また、年末年始に行われるコンサートでは、元日にステージ上で光一の誕生日を祝うのが通例となっている。


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