小档案
浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 - )は、広島県竹原市生まれの日本のシンガーソングライター、ロックミュージシャン。O型。広島県立呉三津田高校(野球部所属)卒業、神奈川大学法学部中退。
1975年、愛奴のメンバー(ドラムス)としてプロ・デビュー。デビュー時からサングラスがトレードマーク。1976年にソロ・デビュー。メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。その為、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最もプロテスト色の強いアーティストである。また、ロック=英語という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは、以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。
大事件
1952年に広島県竹原市に生まれる。
父は戦前、特高警察官、その後は地方警察署に勤務。木江署勤務時代の1945年8月6日、広島市への原爆投下直後に救援隊として広島市に入り二次被爆(入市被爆)した。(父の原爆投下朝の手記)
父の転勤のため、1955年頃から御調郡向島町岩子島、佐伯郡廿日市町宮内、佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区)、広島市元宇品(現南区元宇品)と広島県内で転校を繰り返す。18歳までに20回近く引越しをした。
1963年、江田島の海沿いの町、鷲部に転居。この頃ラジオから流れるビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴く。当時の洋楽はスイートなポップミュージックが主流だったので大きなショックを受ける。姉の誕生日プレゼントであるギターを取り上げギター演奏を始める。
1965年、呉市天応に転居、呉市立二河中学に転校。FEN極東放送岩国を知り毎日ラジオに噛り付き洋楽を聴いた。
1968年、県内有数の進学校、広島県立呉三津田高等学校入学(野球部で広岡達朗の後輩)。野球部を辞めた後はフォークソング・クラブ、新聞部に所属する他、生徒会役員となり地元の学生運動にも積極的に参加。ベトナム戦争を進めるアメリカに加担しながら、この年広島平和記念式典に出席した佐藤栄作首相の行動が矛盾するとして起こった、激しい反対運動にも参加した。こうした学生運動などの経験が、現在の曲作りの基礎になっているとよく言われるが、本人はそのことを否定している。「アカ」と批判する父親とも激しくぶつかった。父親は当初はミュージシャン活動に批判的だった。町支寛二らとバンドを結成、「広島フォーク村」にも参加した。大竹市に転居、広島市内の予備校、英数学館に通う。この頃はアメリカン・ニューシネマをよく見た。またビートルズの他、モータウン・サウンド、ボブ・ディラン、ザ・ビーチ・ボーイズ、ラスカルズ、J・D・サリンジャーに傾倒、アメリカに強く憧れた。
1972年、神奈川大学法学部に入学する。まだ学生運動が盛んな時代で、大学はロックアウトされたり、ストライキで休校されることが多く、こんな大変な時に親からお金を送ってもらう意味が無いと感じる。
1973年、音楽にのめり込み大学中退。下宿を引き払う日、下宿前にあった大学構内で神奈川大学のセクトと他から来たセクトとの激しい内ゲバが発生。火炎瓶が飛び交い、学生達は傷ついてキャンパスに転がり、多くの死傷者を出した暴動を朝まで見た。広島に戻り「広島フォーク村」の音楽仲間と共に愛奴を結成。愛奴ではドラムを担当。デパートの屋上やこの頃は地元のテレビで演奏したりした。
1974年、再び上京し、吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドに愛奴(ドラム担当)として参加。それまでドラム経験はほとんどなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。同年7月発売のよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。
1975年に愛奴としてアルバム『愛奴』、シングル「二人の夏」でレコードデビュー。当時CBSソニーでは大量にプロモーションを行い、浅田美代子の「赤い風船」(セールス80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。バンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲、素質を備えていた。愛奴脱退後は音楽は続けながらウェイターなどの仕事をした[1]。
1976年4月21日にアルバム『生まれたところを遠く離れて』、シングル「路地裏の少年」でソロデビュー。ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。直後に矢沢永吉のフィルムコンサートの前座を務めた。また当時アイドルだった竹内まりやの前座を務めた事もある。他にも歌わせてもらえる所ならどこでも、レコード店の店頭はもちろん、スーパーマーケットの催し、果ては演歌の流しのようにバーのカウンターの中でも歌った。この頃全国巡業での観客は30人から多くて200人程度で、描いた夢にはほど遠かった。70年代はセールスに恵まれなかったものの、着実な楽曲制作と地道なライブ活動によって確実にファンを獲得していく。
1979年8月、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」がスマッシュ・ヒット(オリコン25位、10.2万枚)。
1980年、6thアルバム『HOME BOUND』リリース。それまでの職業作家的な曲作りから、本格的ロックに音楽性が変化する重要作。初の海外レコーディング作品で、ニッキー・ホプキンスやTOTOのスティーヴ・ルカサーなどアメリカを代表する一流ミュージシャンが参加した。
1982年1月12日、日本武道館でコンサート。以降はコンサート・ツアーのタイトルをON THE ROADとする。
1983年4月1日に所属事務所であったホリプロダクションから独立し、音楽事務所「ロード&スカイ」を設立。事務所名は浜田が敬愛するジャクソン・ブラウンの曲名「Road and the Sky」から付けられている。後に尾崎豊(所属は約1年程で個人事務所アイソトープを設立し独立)、三浦知良、スピッツなどが所属することになる。
1983年8月13日には福岡・海の中道海浜公園で初のワンマン野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員。
1985年7月27日‐28日つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲でドラムをたたく。その際拓郎から「浜田、前よりドラムうまくなったな」と言われる。
1986年に発売された2枚組アルバム『J.BOY』が初のオリコン・アルバムチャート第1位(5週連続)を獲得。
1988年8月20日の静岡県浜名湖・渚園での野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では52,000人を動員。
1990年、「誰がために鐘は鳴る」を発売。それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行する。この頃、そのアルバムの内容から引退が予想された。
1992年にテレビドラマ「愛という名のもとに」の主題歌として発売されたシングル「悲しみは雪のように」(1981年リリース曲のリメイク)が初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。200万枚近いセールスを記録。同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなる。しかし、本人はこの時期に鬱状態になり、メディアに全く出てこなかった。
1993年、シングル「アヴェ・マリア/永遠の恋人」発表。印税収益のすべてを社会問題化しつつあったエイズの治療・研究に寄付。
1995年、シングル「我が心のマリア」発表。カップリングの「恋は魔法さ」は神戸を舞台にしたラブソングで、その年に発生した阪神・淡路大震災の復興を願い、印税収入を寄付。このシングルは事務所の後輩であるスピッツや区麗情らとともに制作。
1997年、吉田拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカヴァー。拓郎自身もコーラスとアコースティック・ギターで参加している。CDとアナログ盤が同時発売された。
1998年には20世紀から21世紀をまたぐ前代未聞のツアー「ON THE ROAD 2001」が4年がかりの構想でスタート。全国のホールやアリーナ、そして野外コンサートがスケジューリングされた長いツアーが敢行された。このツアーでは127ヶ所196公演を数え60万人もの観衆を動員。
1999年、「HOME BOUND」「愛の世代の前に」「PROMISED LAND 〜約束の地」「DOWN BY THE MAINSTREET」「J.BOY」「FATHER'S SON」」「誰がために鐘は鳴る」のオリジナルアルバム7作にリマスタリングを施し再発。「DOWN BY THE MAINSTREET」「誰がために鐘は鳴る」はリミックス、「J.BOY」はリミックス、リアレンジメントが更に施されている。
2001年、本人が制作に参加する形で、NHKの地上波、BS、BS-hiで自身の音楽活動を広く紹介する番組が放映された。
2003年3月19日に本人を題材としたゲームOVER THE MONOCHROME RAINBOW featuring SHOGO HAMADAが発売される。
2004年、小説家の春嵐、アレンジャーの水谷公生と結成したユニットFairlifeとして、シングル「永遠のともだち」、アルバム「Have a nice life」でデビュー。ボーカリストにポルノグラフィティの岡野昭仁や元プリンセス・プリンセスの岸谷香らを迎えた。
2006年8月9日に2枚のベストアルバム、『The Best of Shogo Hamada Vol.1/Vol.2』をリリース。また、『The History of Shogo Hamada "Since1975"』が3面紙ジャケット仕様(セルフライナーノート付き)で期間限定にて同時リリースした。
現在もツアーやレコーディング等、音楽活動を精力的に続けており、2006年は松戸を皮切りにON THE ROAD2006-2007をスタートさせている。