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风格
#日本流行 #日本摇滚 #硬摇滚 #流行摇滚
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

乐 队 名 B'z

经纪公司 VERMILLION RECORDS(2002年 -)

事 务 所 VERMILLION

成员档案

姓    名 松本孝弘(まつもと たかひろ TAK Matsumoto)

出 生 地 大阪府丰中市

出生日期 1961年3月27日

身    高 165cm

担    当 吉他、作词、作曲

身为B'z领导者的松本,总是能条理清晰地诉说着音乐理念及毫不紊乱地进行工作,也曾率直地表示他对吉他之外的乐器一概亳无兴趣,但就因为是这么热爱吉他且弹得一手出神入化的技巧,让拥有百年历史以上且闻名于世界的美国吉他制造厂商「Gibson」跨海邀请松本担任署名为「TAK MatsumotoLes Paul」吉他的代言人,此举不但打破了Gibson不曾找东方人来代言的传统,更是万分肯定了松本在吉他上的成就。即使已是功成名就,但在采访时仍说希望能一直演奏下去,因为观众的笑脸让他意识到B'z是有着这种使命的。

中 文 名 稻叶浩志

日 文 名 稲葉浩志(いなば こうし KOSHI Inaba)

出 生 地 冈山县津山市

出生日期 1964年9月23日

身    高 173cm

毕业学院 横滨国立大学教育学部数学科

担    当 主唱、作词、作曲

拥有数学教师资格的稻叶,直至高三那年才开始他的主唱生涯 ;稻叶除了担任B'z主唱及全部乐曲之作词外同时也参与编曲,而他的个人作品也是全部一手包办;他也曾提供词曲作品给其它歌手,如1999年末杰尼斯事务所的偶像团体「J-FRIENDS」的第三张单曲《Next 100 Years》。作为B'z的主唱,松本评价说稻叶的自制力是无与伦比的,无论是嗓子保护还是身体训练体能的维持他都能做到极致。因为天性不爱说话,总是在别人看不见的时候竭尽全力,在演唱会上总是魅力四射让最后一排的观众也能尽兴而归。

乐队简介

B'z乐队是由吉他手松本孝弘、主唱稻叶浩志于1988年组成的二人男子摇滚乐队,也是亚洲唯一一支进入Hollywood Rock Walk的殿堂级摇滚乐队。

一个热衷吉他的店员,一个即将成为老师的高材生,为了一个共同的梦想走到了一起。只有两个人乐队,作品全由自己一手创作包装,正是他们的这种坚持、恒心以及超过别人好几倍的努力使得他们在经历二十几年后仍然屹立日本乐坛不倒,其超过8000万的销量也是无人能及。

プロファイル

バンド名 B'z

レーベル VERMILLION RECORDS(2002年 -)

事 務 所 VERMILLION

来歴

結成前 - デビュー

1987年、音楽制作会社ビーイングに所属し、浜田麻里やTM NETWORKなどのツアーサポートやスタジオ・ミュージシャンとして活動していたギタリストの松本が、「自らの音楽を表現できるバンドを創る」という構想のもと、バンド結成へ向けた活動を開始。その間、あるボーカリストとバンドを組むことを音楽雑誌で公表したが、そのボーカリストとデビューすることはなかった。

1988年5月、ボーカリストを探していた松本は、ビーイングの社長で音楽プロデューサーでもあった長戸大幸から1本のデモテープを渡される。そのデモテープは当時Being音楽振興会(後のBeing Music School)に所属していた稲葉が、T-ボーン・ウォーカーの「T-BORN SHUFFLE」、レッド・ツェッペリンの「YOU SHOOK ME」、ビリー・ジョエルの「Honesty」を歌ったものが録音されていた。長戸はB'z結成の2、3年前から「稲葉を何とかしたい、早くデビューさせたい」と事あるごとに言い続けていたという。こうして長戸を介して、2人は会う約束を交わす。しかし、この時点で松本は、「デモも聞いたし、写真も見たし、(稲葉と会う前から)自分は心が決まっていた」「後は『いい人』であってくれと願っていた」と語っている。

翌日、「SOUND JOKER」という小さなスタジオで初顔合わせした2人は軽く会話を交わした後、ビートルズの「Let It Be」、「Oh! Darling」の2曲をセッションする。しかし、機材の故障により結局その日は2曲しかセッションが出来ず、その場はお開きとなった。後日再び会った時には、何故か既にデビューへ向けての活動が始まっていたという。その後2人はユニットB'zを結成、1988年9月21日にシングル「だからその手を離して」、アルバム『B'z』の同時リリースでデビューした。

2人が初めて出会ってB'z結成・楽曲制作・デビューに至るまでは、約4ヶ月という短い期間であった。B'z結成時はお互い(特に稲葉)の合意が形成されないままデビューへの話が進んだらしく、稲葉は結成当時について「振り返ってみれば、これまで松本さんから『一緒にバンドをやろう!』とはっきり口にして言われたことは一度もない」とインタビューやライブMCで語っている。ただし1993年に敢行されたライブツアー『LIVE-GYM '93 "RUN"』でのMCでこのエピソードが語られたときは、「そういえば言っていないな」ということで、稲葉が冗談めかしながら「一緒にやろう!」と言ったこともある。

結成当時の音楽業界では、「新人はアルバムを3枚リリースするまでにヒット作品を作れなければ見切りをつけられる」という風習があった。そのため、松本はデビュー時から明確なビジョンを持って制作に当たっており、稲葉と初対面した際に「3年以内に(当時一番売れていた音楽雑誌である)『Gb』の表紙を飾る」「3年以内に『オリコン』の(1位 - 50位までが掲載されている)左ページに載る」といった「三ヵ年計画」を力説していたという。

初期のB'zのプロデューサーは中島正雄である。B'zがブレイクした後も中島はスーパーバイザーという肩書きで指揮していた。

デビュー後 - ブレイク

デビュー当時はTM NETWORKのツアーで訪れる各地でキャンペーンを行うなど、地道な活動を続けていた。キャンペーンについては、ヤマハの楽器店等で「松本によるギターセミナー」と称して開催されたものの、来場者は若い女性が多く、実際はセミナーを早めに切り上げて後半をB'zのお披露目コンサートの時間に当てる、といったものだった。メンバーは「(多くのファンと)握手しすぎて手から指紋が消えた」「(お辞儀のしすぎで)一日が終わると体が"くの字"から戻らない」などと語ったことがあり、キャンペーンや挨拶回りはかなりのハードスケジュールだった。

しかしながら、デビューしてしばらくは苦戦が続いた。デビューシングルの「だからその手を離して」はオリコン集計でもカウントされない程度しか売れず、またデビューアルバム『B'z』は発売当初はオリコンチャート初登場48位で、100位以内には4週ランクインしたのみであった。続く2ndアルバム『OFF THE LOCK』も、発売当時は初登場35位で100位以内には4週ランクインしたのみであった。

その後1989年にリリースしたミニアルバム『BAD COMMUNICATION』が、ブレイクのきっかけとなる。このアルバムに収録された同名の曲が、タイアップの効果もあり有線で注目され始め、オリコンチャートに(10位以内には入らなかったものの、)163週ランクインするロングヒットを記録した。1990年リリースの3rdアルバム『BREAK THROUGH』が初登場3位となり、B'z初のオリコンTOP10にランクインする。同年リリースの4thシングル「BE THERE」がシングルチャート初登場7位となり、そして続いてリリースされた5thシングル「太陽のKomachi Angel」が初のオリコンチャート1位を記録し、ブレイクを果たした。

その勢いそのままに、90年代はミリオンセラーを連発する。1991年リリースの8thシングル「LADY NAVIGATION」が初のミリオンセラーを記録する。1993年リリースの12thシングル「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」は、202万枚とダブルミリオンを記録する。その後も、1995年リリースの18thシングル「LOVE PHANTOM」が180万枚の大ヒットを記録するなど、「LADY NAVIGATION」から20thシングル「Real Thing Shakes」まで、13作連続でミリオンセラーを連発する。1998年には、ベストアルバム『B'z The Best "Pleasure"』が500万枚、『B'z The Best "Treasure"』が400万枚と2作のベストアルバムが大ヒットを記録するなど、人気を不動のものとする。2000年にも、27thシングル「今夜月の見える丘に」が、シングル15作目のミリオンセラーを記録した。

ブレイク以降

ブレイク以降もユニット活動を継続し、2015年までにアーティスト・トータル・セールス約8,216万枚等の日本記録を数多く打ち立てる。

また日本国内での活動を継続しながらも、日本国外での活動や日本以外のアーティストとの共演が顕著になっていく。初の日本以外でのライブとなった2001年の台北公演を皮切りに、香港公演や全米ライブツアー等も開催した。また、2007年にはロックンロール・音楽界に貢献したアーティストを讃える「ハリウッド・ロックウォーク」に、日本・アジア圏のミュージシャンとして、初の殿堂入りを果たした(後述)。

ユニット名

アクセントの位置

ユニット名である「ビーズ」は、世間的には抑揚をつけない平板な読み方(例えば「リール」「レール」に近い読み方)が主流であるが、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)でメンバーが語ったところによると、正しい読み方は先頭にアクセントを置いたものであるとされる(例えば「プール」「シール」に近いアクセント。以降は正式な読み方を便宜上「ビィズ」と表記する)。また『NHKスペシャル』(NHK)においてB'zを特集した際、NHKは先頭にアクセントを置いた読み方を採用している。これについてNHK側は「ご本人たちもファンも関係者もみんな(「ビ」にアクセントを置いて)『ビィズ』とよんでいます」と回答した。

平板な発音の方が一般に定着した理由についてNHK放送文化研究所は「(NHKの)番組内での発音については、責任者が決めている」という前提を置いた上で、「ギター、ドラマ、映画、ディレクター。こういった言葉は、かつては頭を高くした発音がされていたと思うのですが、今は平たく言うほうが主流ですね。日本語の習性として、言葉が出来て、馴染みが薄いときには頭にアクセントを置く、そしてその言葉が口をついて出る回数が増えるにつれ、どんどん後ろに移動して、落ち着いていくというものがあります。「ビーズ」と平べったい発音になるのは、自然の流れなのでは」という見解を語っている。

なおメンバーは「自分達はビィズと呼んでますが、どちらでも呼びやすいように呼んで下さい。」と発言している。

ユニット名の由来

ユニット名の由来については、メンバーはインタビューなどで「深い意味はない」と前置きしているものの、以下の由来を語っている。

ユニット名の条件として「現代的な記号のようなものがいい」というものがあり、企業のロゴのように意匠化しやすい名称が求められていた[16][17]。最初のユニット名の候補としては、英語のアルファベットの最初の文字と最後の文字を用いて、「A to Z」「AからZのすべてをカバーする」という意味を込めて『A'z(アズ)』が挙げられた。ところが、「A'z≒エイズ(AIDS)」と読まれる可能性があることに気付いたため、これを回避。代案として「"A"の次は"B"だろう」という理由で『B'z』とした。その後、「B」から始まる名前のバンドは、非常に力強いバンド(ビートルズ等)が多いことが分かり、また「『B'z』だと憶えやすそう」という意見もあり、現在の名前となった。

上記の由来は、主に2000年代以降にメンバーが語ったものである。しかしながら、それ以前は由来について触れている文献の内容やメンバーの発言には一貫性が無く、曖昧なものも多かった。そのことについて、松本は2012年のインタビューで「昔は適当に答えていた」と語っている。以下に、上記の由来以外のものについて記載する。

松本がパーソナリティを務めたTOKYO FM『BEAT ZONE』の中でゲスト出演の稲葉が「『蜂の群れ(Beeの複数形)』でB'z」との発言をした(1995年頃は17thシングル「love me, I love you」やLIVE-GYMで使うロゴマークに蜂の腹部を模したものを使用していた)。

1989年の会報で松本は、「終わりにZをつけるのが最初に決まって、スタッフと考えた結果『B'z』になった」と語っている。

「バンド名は現代的な記号のようなものがいい」というイメージの中で、最初に浮かんでいたのが「とにかく『Z』を使いたい」というということで、それに付随するスペルとして男性的なニュアンスのある『B』が良いと思い付いて、この2つの文字をジョイントして『B'z』になった。

「ギターのエース」と「ボーカルのエース」のジョイントということで『A』を使うと言う話になって、そこに松本の気に入っている『Z』を付けて『A'z』という案があったが、発音しにくいので最終的に『B'z』に落ち着いた。

2012年のインタビューで、松本は結成当時を振り返り「昔は『ビートルズのBと、レッド・ツェッペリンのz』って答えたこともある」と語っている。

2人組になった経緯

B'z結成当時、日本の音楽シーンが「バンドブーム」を迎えていた中、B'zは当時としては異色であった2人組のユニットという形式でデビューした。松本はこのことについて「セッションミュージシャンとして限界に来てて、グループをやるタイミングだと思って動き出しただけで、バンドブームとは関係のないところにいたから」と語っている。しかし松本は、当初ベースやドラム担当を含めた4人くらいのバンドを考えており、実際に何人かに当たってみることはしていたという。当時を振り返り松本は「最初のうちは(ドラムやベース担当といった)他のメンバーも探すつもりだったが、(稲葉と)2人でデモテープを作っているうちに「2人でもいい」と思うようになり、2人でいこうということになった」「バンドって4 - 5人いても、重要なものを飾るのは2人くらいでしょ? だったら2人がいいかなって思った。(中略)僕のギターと気に入ったボーカルさえあれば、後はサポートメンバーを入れればいいだけの話。稲葉と2人でやっていこうと思った。」と語っている。2人組ではあるがリーダーは松本が務めている。

メディアへの露出

毎年ライブツアーを主体とした活動を行っており、テレビへの露出は少ない。音楽番組の出演は多いが、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)、『COUNT DOWN TV』(TBS系列)などに出演する程度である。年末年始は『NHK紅白歌合戦』などの大晦日・正月の特番には一切出場しないため、年末最後のテレビ出演(仕事納め)は『ミュージックステーションスーパーライブ』(テレビ朝日系列)となることが多い。また、NHKやwowowでドキュメンタリーの放送が放送されることもある。

近年になってはテレビ出演の機会は減少の傾向にあり、2007年の『ミュージックステーションスーパーライブ』にて「SUPER LOVE SONG」を披露したのを最後に、音楽番組での演奏披露は2011年3月まで行われておらず、テレビ出演自体も2009年に『ブザー・ビート〜崖っぷちのヒーロー〜』(フジテレビ系列)の宣伝番組にコメントを寄せて以来出演していない状態が続いていた。その後、2011年4月1日放送の『ミュージックステーション3時間スペシャル』に3年4カ月ぶりに出演して以降、翌年の『ミュージックステーションスーパーライブ2012』に出演、デビュー25周年となる2013年には6月14日放送回のミュージックステーションで『B'zスペシャル』と題し4曲を披露、さらに翌年の2014年には互いのソロ作品でミュージックステーションに出演し、B'zとしても年末年始に数本のテレビ番組に出演するなど、以前ほどではないがメディア露出の機会が増えてきている。

また音楽以外の活動(バラエティ番組出演、CM出演、俳優活動など)には消極的な姿勢を見せている。音楽以外の活動などについて松本は「才能のある人が多い時代だから、バンドをやっている人でも音楽以外のフィールドに出て行く人って多いでしょう?でも僕らはあくまでも音楽活動をメインにしていきたい」「音楽のフィールドを固めていくことが、バンドを長続きさせる秘訣だと思っている」と語っている。

ただし過去には、ラジオ番組のパーソナリティを務めたことがある。東海ラジオ『Come on JTB B'z WAVE-GYM』(両名)、『WAVE-GYM Vol.0』(稲葉)、TOKYO FM『BEAT ZONE』(松本)ではレギュラーを務め、単発ではニッポン放送『オールナイトニッポン』(1992年、1995年、2000年、2001年、2003年、2005年)と、多数のラジオ番組のパーソナリティを務めたことがある。また、デビュー23年目の2011年に、B'z初となるタイアップでのCM出演を果たした。

ファン

ファンクラブ 「B'z Party」の加入者数は2008年時点で延べ人数で58万人を超える[22](休眠会員含む)。

一方で、ギタリストで音楽評論家のマーティ・フリードマンは、「B'zはあれだけ人気なのに、フォロワー(B'zのスタイルを模倣して音楽をする人)がいない」という点を指摘しており、その理由としては「(B'zは)テクニックがめちゃくちゃあるし、2人とも自分だけの独特なスタイルを確立しているから、マネしたくてもできないんだと思う」と推測している。


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