小档案
国生 さゆり(こくしょう さゆり、1966年12月22日 - )は日本の女優・タレント・歌手。血液型A型。愛称:さゆちゃん。
鹿児島県鹿屋市出身。幼少期を長崎県佐世保市で過ごし、鹿屋市立西原小学校・鹿屋市立第一鹿屋中学校・清水ヶ丘高等学校(広島県呉市)卒(父親が海上自衛官で、佐世保基地から鹿屋基地、呉基地への転勤にともなうもの)。
1985年4月おニャン子クラブの会員番号8番としてデビュー。
1986年、シングル『バレンタイン・キッス』でソロデビュー。
本名の正式な表記は「國生さゆり」で、NHKに出演する際などにはこちらを用いる場合もある。 「さゆり」という名前は父が吉永小百合のファンであったことから名付けられた。
小简介
高校在学中の1984年、第3回ミス・セブンティーンコンテスト中国地区代表に選出され全国大会に出場。入賞はできなかったものの、CBSソニーにスカウトされる(同コンテストの同期には渡辺美里・工藤静香などがいる。1986年に渡辺美里のラジオ番組で国生と対談)。CBSソニーに(本人曰く)あくまでも「運動会要員」として所属が決まる。レコード会社対抗運動会に出場し、当時人気アイドルであった石川秀美を追い抜いたエピソードがある(石川からは何も非難されなかったが、スタッフに大目玉を食らったという)。
資生堂の美容部員に就職が決まり上京して、その時知り合ったコンテスト協賛元のCBSソニーのプロデューサーの薦めで、1985年2月、フジテレビ系列の深夜番組『オールナイトフジ』の“女子高生スペシャル”に出演。番組内で行った“美少女コンテスト”において優勝するなどして、同年4月1日からの同局で始める新番組『夕やけニャンニャン』のおニャン子クラブ(以下、原則として「おニャン子」と標記する)の一員としてスカウトされ、おニャン子クラブ会員番号8番として番組開始とともにデビューした。高校時代を広島で過ごしたため、当時は「広島出身」としていた(現在は「鹿児島出身」としている)。
学生時代は陸上部のキャプテンを務めていた。加え、『夕やけニャンニャン』(以下、『夕ニャン』と略す)放映開始時には既に学生ではなかったため、『夕ニャン』出演当初はリハーサルから番組に参加し、学生時代とテレビリハーサルで得た体験を交えつつ、自発的に後輩おニャン子に指導するなど、自然とおニャン子のリーダー格となっていった。しかしおニャン子のパブリックイメージはあくまでもフロントの4人である新田恵利、中島美春、福永恵規、内海和子に集中していたため、9月にソロデビューした河合その子のキャンペーンに同行した以外は特に目立った活動はなく、あまり優遇されているとは言えない状態が続いた。
1986年2月1日、国生さゆりwithおニャン子クラブ(国生のサブボーカルとして、白石麻子・渡辺美奈代がつく)名義のもと、『バレンタイン・キッス』でソロデビューする。また、『スケバン刑事Ⅱ』にゲスト出演、『月曜ドラマランド』などおニャン子主体のドラマにも主役格で出演するようになり、その後の女優としての活動の礎を築く。さらに、カネボウ秋のキャンペーンガールに選ばれるなど、おニャン子のなかで突出した活躍をみせた。この頃から「芯の強さ・気の強さ」を前面に出すようになり、おニャン子のリーダーとしてのイメージも定着してゆく。
リーダーとして後輩の指導にも積極的に関わっていたが、ソロデビュー以降は「年下のメンバーの子たちの中に、自分から入ってはいかなかった」という。それに加えて持ち前の「体育会系」気質からか、渡辺美奈代、渡辺満里奈、工藤静香などは後に「国生さんが苦手だった」と発言している(そうとわかる発言をしている)。また「私はプロ意識のない人は嫌いです」と、暗におニャン子内に派閥が存在していることを認める発言もしている(新田恵利#新田派・国生派の頁参照)。国生が挙げる仲の良かったメンバーは福永恵規、樹原亜紀、名越美香、城之内早苗など、自身が「おとな組」と称する面々。特に同い年で、同じく就職を取り止めておニャン子入りした福永を「東京に来てはじめてできた友達」と表現している。
バイクの免許を取得し、1986年の10月から約一ヶ月掛けて北アメリカ大陸を横断する企画を実行。その様子は『夕ニャン』内で逐一報告された。完走を遂げた際には「(交通)事故を起こすと芸能活動が出来なくなるので、もうバイクには乗れません」と、涙ながらに発言。ビデオ(当時はLD)「HELLO!アメリカ」、写真集「EAGLE」などの形で商品化された(2007年にDVD化)。
1987年4月、卒業という形で『夕ニャン』とおニャン子を離れる。番組最後の挨拶で「私はおニャン子の想い出を缶詰に入れ、冷蔵庫に入れて保存しておきたいです」という弁を述べたが、後にこの時のVTRを観たタモリから「缶詰に入れたら、何も冷蔵庫に入れる必要はないじゃないか」という突っ込みを入れられる。同時期に『キスより簡単』で連続ドラマ初主演を果たす。
同年8月の番組終了時までには何回かゲストとして『夕ニャン』に出演し、おニャン子クラブの解散コンサートにも出演。
大事件
1988年でシングル、アルバムの発売は途絶えたが、女優としては数々のドラマのレギュラーを途切れなく得るなど活動は順調だった。ただこの頃に、「歌詞や台詞を覚えていかない」、「遅刻しても謝らない」、「ADにつらく当たる」、「(インタビュアーや取材記者など)感性が合わないと思った相手とは話さない」等の言動をしていると一部メディアで批判が出るようになる。これに関して当時は「自分は口数が少ないから誤解を受けやすい」と弁明していたが、近年は「あの頃は天狗でした」とそれらが事実であったこと、その為に20代の後半に一気に仕事が減ったことを明かしている。
1991年のドラマ『しゃぼん玉』出演以降、長渕剛との不倫関係が噂されるようになる。これに関して長渕は「自分は一般常識の範囲外で生きている」と発言。1995年1月、長渕が大麻取締法により逮捕されたのを受けて記者会見を開き、自身は薬物に無関係であり、長渕の夫人を交えて話し合い不倫関係を清算させたと発表。「潔い」、「保身のために逃げた」と賛否が分かれたが、この件を機にバラエティ番組に多く出演するようになり、「強気に恋愛を語る」というキャラクターを得る。
1995年4月から『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』にレギュラー出演。番組内で室井滋、高山理衣とともに『Mckee(マッキー)』を結成、シングルを発表する。これ以降もよみうりテレビ制作『島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!』などに出演。島田紳助は過去に自身の番組『Club紳助』において、国生が恋愛体験をあからさまに話してくれた事に感謝しており、不倫問題の際「女優はどんな恋をしても許される」と応援の手紙を送ったという。また『夕ニャン』で共演していた常滑川まことも、番組共演の度にこの件を笑いに変え、国生をカバーしていた。
2000年11月、中学時代に交際していた上前琢郎と結婚したが、2003年8月に離婚した(その後、1年間ほどのブランクを経て再び同棲する関係になっていたことが、2007年6月になって報道された。ただし、入籍はしていないという[2]。さらに、2008年8月になって、再び同棲が解消されていると報道された[3]。)。結婚生活中から再びバラエティ番組への出演も増える。
2005年、おニャン子クラブの再結成に参加。シングル「ショーミキゲン」では、おニャン子クラブの楽曲ではじめてフロントボーカルを担当した。
2007年2月13日にテレビ朝日系列で放送された『ロンドンハーツ』ではドッキリ企画として番組内のライブで21年ぶりに「バレンタイン・キッス」をデビュー当時の衣装とポニーテールの髪型で再現。ライブ当日での急遽出演依頼であったため、感涙していたと同時にもう少しレッスン時間が欲しかったと伝えていた。「バレンタイン・キッス 2007」と銘打った新録音バージョンをインターネット配信で発表した。
2007年9月22日にテレビ朝日系列で放送された土曜ワイド劇場『森村誠一の終着駅シリーズ〜悪の条件』では1985年放送の『夕やけニャンニャン』以来22年ぶりに片岡鶴太郎との共演を果たしている。
2008年、デビュー曲のセルフリメイク「バレンタイン・キッス 2008」を発表。2月14日、AKB48のライブ内で歌唱された「バレンタイン・キッス」でもドッキリ企画として同曲の2番目のフレーズから参加し、AKB48との共演を果たす。この後の記者会見では報道陣に今でも「現役アイドル」宣言をした。
また同日放送の『アイドリング!!!』で事務所の後輩で奇しくも自身と同じ番号"8"を持つアイドリング8号のフォンチーに対し「フォンチーね、ちょっと太ったのよね」と発言。担当マネージャーの「アイドルグループの中にせっかく入れてもらったのに全然やる気がない」という嘆きを暴露。升野が「8番の名前を汚さないで」と言った後に続けて「汚さないで」と発言し、これらの言動が一部で物議を醸した。
11月3日には、女子プロレス団体OZアカデミーによる新宿FACEでの興行に、交友関係のあった尾崎魔弓のセコンドとして登場。