小档案
氷室京介(ひむろ きょうすけ):ヴォーカル
布袋寅泰(ほてい ともやす):ギター、コーラス
松井恒松(まつい つねまつ):ベース
高橋まこと(たかはし まこと):ドラム
小简介
テレビ番組への出演は少なかったが、デビューして間もない頃に、ドラマ「太陽にほえろ!」(日本テレビ)に出演している。その後も音楽番組としては『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)や『いきなり!フライデーナイト』(フジテレビ)、名古屋のローカル番組『5時SATマガジン』(中京テレビ)などに数回出演している。
『夜のヒットスタジオ』の”ご対面シリーズ”では、氷室の初恋の女性が登場して氷室が喜び「さすがフジテレビだぜい!」としゃべるという微笑ましいシーンが見られる。
『いきなり!フライデーナイト』ではメンバーが酔っ払ったまま出演している。
バラエティ番組である『いきなり!フライデーナイト』にしばしば出演したのは、司会の山田邦子がBOØWYのファンであり、氷室によれば、山田が「楽曲をよく理解してくれていたから」だという。
『5時SATマガジン』では”ロックスターボウリング大会”という企画に出演している。
『夜のヒットスタジオ』に「ONLY YOU」で出演した際に、司会の古舘伊知郎から、「(氷室の衣装が)銀座の買い物帰りのおばさんみたい」と言われ、また布袋に対しては殿さまキングスのモノマネを強要させられた事等が原因か、テレビ出演は1986年12月を最後に途絶えている。
氷室は当初、“狂介”という芸名だったが、京都の占い師に「“狂”という文字は絶対に使ってはいけません」と言われ、現在の“京介”に改名した。[1]改名後売れたため、以後、もう占いをしないと決めたらしい。
氷室はバンドを結成した当初は、英会話教材のセールスマンをしていた事もある。営業成績も優秀だったという。しかし、車の誘導のアルバイトでは車をぶつけ、パチンコ屋では台を壊し、ゲームセンターでは出勤3日目には先輩を見切り一日中ゲームをして遊んでいたというエピソードもある。氷室と布袋はなかなか定まった仕事に就かず、女性のヒモ同然の暮らしをしつつ、バンドの活動資金は高橋と松井のアルバイト代で補っていたそうである。
布袋は本当は別のバンドに加入したかったが、地元で有名な不良少年の氷室が怖くて断りきれなかったと告白している。
松井はロンドンへ行った際、帰りにデパートで土産物を買おうとしたが英語を全く喋れず、意地になって日本語を貫き通した。
ロンドン マーキークラブ(MARQUEE CLUB)でのGIGは「下手くそ」「止めろ」等の客の野次や、演奏中に酒のボトルが飛んできたりと、かなり酷い状況であった。録音が存在しているにも関わらず公式なリリースがないのはこのためだと言われるが、ブートレッグで聴く限りでは日本同様に盛況である。(このGIGの一部は、2007年発売の『“GIGS”BOX』において映像化されている。)
高橋が他の5人と初めて「IMAGE DOWN」を演奏した際、演奏開始のカウントがあまりにも大声だった為、松井が笑い出してしまい、演奏が中断してしまった。
デビューして間もない頃、九州の佐賀県で3万人規模のコンサートがあるという話を聞き出演のために駆けつけたところ、それは村の夏祭りでギャラは村で収穫された野菜や酒だった。
松井は高円寺にあった「ミント」という喫茶店のマスターをしていたが、店がバンドの連絡所も兼ねていたため、熱心なファンが通いつめ、売り上げが上がらず潰れてしまった。
『Marionette』のプロモーションビデオのアニメ・バージョンはガイナックスが制作した。当時ガイナックスの社長を務めていた岡田斗司夫は、後に自著の中で「当時は誰もがあれをやりたがった」と回想している。
日本テレビの番組『メリー・クリスマス・ショー』で吉川晃司とビートルズの『HELP!』をカバー。氷室はサザンオールスターズの桑田佳祐と共演した事もある。
『BEAT EMOTION』発売前にラジオで「次は売れる曲出します」と発言したが、その通りに売れた。
「JUST A HERO TOUR」の沖縄公演で、煽っても煽っても縦ノリにならず横揺れなオーディエンスに腹を立てた氷室はステージから下がってしまった。結果的には戻って最後まで演奏した。
2008年5月10日放送のテレビ番組『SmaSTATION』(テレビ朝日系列)での1980年代邦楽ベスト20というランキングにおいて、X JAPAN、尾崎豊、オフコースなど数多くの著名アーティストを抑え堂々の1位を獲得(解説の小林克也によると、都市部だけではなく全国全てにおいて圧倒的な票数で1位であったらしい)。
初期メンバーの諸星(G)と深沢(sax)の脱退理由は書籍によって「音楽性の違い」「今後の不安」「事務所の命令」など諸説書かれており、真相は不明である。しかし、二人のラストライブで氷室がMCしたところによると、諸星は「もっと黒っぽい音楽(ブラックミュージックのことか?)をやりたくなったから」、深沢は「アクター(俳優)になりたいから」が脱退理由とのこと。二人のラストライブで、深沢は自作詞の曲「NO.NY」とデヴィッド・ボウイの「Suffragette City」でVo.をとっている。深沢は現在も俳優として活動中(舞台でサックスを吹くことも)。諸星はBOØWY脱退から約1年後に音楽業界から引退したが、1983年11月27日のライブのアンコールに特別出演し、「MIDNIGHT RUNNERS」を演奏した。深沢脱退が氷室の口から告げられた瞬間、会場内の女性ファンが悲鳴を上げた。
国産バンドとしては桁外れにブートレッグの数が多い。大半の公演についてブートレッグが存在すると言う説もある(初期の頃は、営業戦略からバンドがライブの録音を許していた)。
ファンの間では、マスコミに一切公表していないにも関わらず「渋谷公会堂」で解散という事が事前に伝わっていた(パソコン、携帯はもちろん、ポケットベルさえ流行る前であるため、情報源は実際に会うか家電話の当時では、異例)。これは、「活動後期の歌詞や活動内容の加速度・充実度やエピソードから一部ファンと音楽ライターが年内解散を予測しており、複数発生源の口こみとして広まった」ということが、音楽誌・BANDやろうぜの編集後記にこぼれ話として書かれたことがある。
解散の理由について布袋は、自身が海外での活動を強く希望した為、としている。