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风格
#日本 | 演歌
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、数々のヒット曲を歌い銀幕スターとして多数の映画に出演した昭和の歌謡界を代表する日本の歌手、女優である。

女性として初の国民栄誉賞を受賞した。横浜市磯子区滝頭出身。 愛称は御嬢(おじょう)。横浜市立滝頭小学校卒業。精華学園高等部卒業。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。

小简介

美空ひばり(1937~1989),原名加藤和枝,日本文艺巨星,享有“歌坛女王”之誉。她多才多艺,影、视、歌、剧,样样出人头地。从12岁灌制唱片开始,她一生共唱了1400首歌曲,唱片的总销量超过了800万张,她先后拍影片160部,深受日本国民的欢迎。

美空云雀出生在日本横滨,9岁登台献艺,11岁起用艺名“美空”,立即成了全日本家喻户晓的歌星。这主要是由于她本身具有非凡的艺术天才,感谢“上帝”赐给美空一个金嗓子,但更重要的还是美空的歌表达了千千万万普通人心中的主题,唱出了他们的心声,抒发了他们的意愿。艺术贴近生活,艺术和人们息息相关,才是美空成功的保证。美空主演《悲伤的口笛》影片时,她唱的同名主题歌,一夜之间传遍全国。人们喜爱这支歌,更喜爱美丽可爱的小女孩美空云雀。一颗小明星冉冉升起,“天才少女”的桂冠从天而降,美空云雀13岁去夏威夷公演,进而名扬海外。

20世纪四五十年代电影和广播主宰着日本国民的主要精神生活领域。美空云雀主演的《伊豆舞女》和《猜拳姑娘》,是轰动日本的、卖座率打破纪录的影片。美空的巨大成就使同行抵消美空的影响,争取自身生存,后来竟发生了日本6家电影制片公司不得不联合对抗美空的事件。

权威的日本广播协会举办的“红白歌会”一年举行一次。届时,全日本明星荟萃,争相亮场,这是日本歌坛盛会,平庸的艺术家是沾不上边的。年仅16岁的美空云雀从1954年进入角逐,年年名列前茅,而且经久不衰,真是创了一大奇迹。日本各大唱片公司争相邀请美空灌制唱片,因为她唱的歌曲,有无数的歌迷和崇拜者,因而也给唱片公司挣了大钱。美空名利双收。她除了取得应该得到的优厚酬金外,还接受了一顶顶荣誉奖赏的桂冠,赢得过“日本唱片大奖赛歌唱奖”、“日本唱片大奖”、“日本唱片15周年大奖”、“日本唱片蓝绶带大众奖”等等。她还在“最受欢迎的歌手”评比中连续12年夺冠。

美空云雀寓情于歌,有极强烈的感染力,会使悲者得到勉慰,使受压抑者的感情有所寄托,使无数人焕发了希望的活力。诸如云雀唱的《悲伤的口笛》、《港町十三番地》、《悲酒》,几乎在日本全国家喻户晓。仅《苹果追分》一曲制成的唱片便销出70万张,又开创了一个新记录。1989年《昭和美女》一曲参加全国评奖时,美空以1934票高居榜首,而影坛红星山口百惠仅获265票,只列第5位。

1950年,战后的日本,吃不饱的年代。美空云雀的歌声不仅仅是听觉的享受,更安抚了多少颗脆弱的心灵。1937年5月29日,她出生在日本横滨市。儿时的她就在舞台、电影等表演中显露出惊人的天赋。1949年黄莺初啼,“河童”、“悲伤的笛声”。当时的她只有12岁,虽然从90年代的SPEED开始,低龄化已成为一种趋势,但在那时,12岁的女孩又演电影,又唱主题歌,是很稀奇的事。当时有舆论批评她太过早熟,但她丝毫不逊成人的声线终于折服了广大听众。后来的作品有:“苹果民谣”、“悲伤的酒”、“火红的太阳”、“头发乱了”、“川流不息”等等。现在听来,无一不是经典老歌,经得起岁月洗刷。1987年美空云雀一病不起,但第二年仍坚持举办了个人演唱会,1989年去世,享年52岁。日本政府追赠她国民荣誉奖。确实,她对日本音乐界的功绩,可用“战功赫赫”来形容。她的歌声是一段日本音乐史,即使世代交替,依然能永远流传下去。

说到美空云雀,很多人都以为她是演歌女王,其实她多才多艺,不论是JAZZ,还是拉丁舞曲、民谣,都十分擅长。这里特别推荐大家听一听“星尘”、“A列车远行”,其中的英文部分咬字清晰,流畅自然,对外语的把握非常到位。如果那时她去了美国发展,又会是怎样的一番前景呢?

1966年的“悲伤的酒”以及后来的“火红的太阳”都获得了很大的成功,但从那以后,她的曲风不再变化,渐渐固定成演歌一派,艺术的舞台也变得狭窄了。畅销曲依旧不少,象晚年的代表作“爱灿灿”、“川流不息”等,词曲堪称一流,但若不是由美空云雀来演绎,恐怕会逊色不少。她的唱腔沉稳安静,细细咀嚼歌词意境,直指人心。时至今日,仍有许多歌手翻唱她的歌曲,尤以港台居多。

翻唱不是一辈子的事,更应学习的是象她早年那样,挑战各种类型的歌曲,拓宽自己的表演舞台。只有这样,艺术之花才能长开不败

幼少期

神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受けひばりは歌謡曲・流行歌を唄うことの楽しさを知る。

1943年6月、第二次世界大戦の戦時中に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは父のために『九段の母』を唄った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの唄による慰問活動を始める。

デビュー

終戦間もない1945年、喜美枝がひばりを引き続き唄わせるために八方手を尽くし、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。

1946年、NHK「素人のど自慢」に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「上手いが子供らしくない。」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にできないとつげた。1946年9月、横浜市磯子のアテネ劇場で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、審査員をしていた古賀政男のもとにひばり母子は駆けつけ、「どうか娘の唄を聴いてください!」と懇願する。ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールをもらった。

1947年、横浜の杉田劇場に漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、ひばり母子が乗っていたバスが前方からのトラックと激突し側転、崖に向かって落下していった。そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。ひばりは左手首を切り、鼻血を流し気絶、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」とどなったが、ひばりは「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。

1948年2月、ひばりは神戸松竹劇場に出演し、暴力団山口組三代目の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られる。同年5月、浪曲歌謡漫談で有名な川田義雄(のちの川田晴久)にその才能を見込まれ、川田一座に参加[1]。そこで当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置といわれ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層と同時に、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている[2]。 同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなり、舞台の仕事を取り、次々とひばり映画を企画することに成功する。

全国的人気を獲得

1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『喉自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たす。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得る。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。

1950年、川田晴久と共に二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに二人の主演で『東京キッド』に出演。同名の主題歌もヒット。

1951年、松竹『あの歌超えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じる。実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田をお兄ちゃんと呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とする。

1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶように。初代中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターになる。この後、新人男優はひばりの相手役となることで世間に認知され、大スターとなるジンクスが生まれた。

三人娘の時代

1954年、NHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。また、松竹・東映製作映画を中心に映画にも多数出演し、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。

1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。初の那覇公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。

1957年1月、浅草国際劇場にて、山形県出身の少女ファンに塩酸を顔にかけられ、浅草寺病院に3週間入院後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリを務めあげ、当時のひばりは既に芸能界に置ける黄金期を迎えていた。

1958年4月1日、田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となった。同年6月、ひばりプロダクションを設立し、副社長に三代目山口組・田岡一雄組長が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。

1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。

小林旭との短い結婚・離婚後

1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚し、一時的に仕事をセーブするようになる。しかし、実母にしてマネージャーである加藤喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならず、またひばり自身も歌に対する未練を残したままだった為、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍に居て欲しい願いは叶わず(また小林も勝手に借金をするなどトラブルを起こしていた)、別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚した。田岡が間に入り、ひばり母子の意思を小林に告げ、離婚会見を開かせた。小林はその場で「理解離婚」とした上で、「未練はいっぱいある。みんなの前で泣きたいくらいだ」と語った。その後、別に開いた会見でひばりは「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」と語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。なお小林旭の著書によれば、実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった(小林は入籍を希望していたが、母が不動産処分の問題があるからと断り続けたとの事)。

離婚直後に発表した『柔』は翌1965年にかけて大ヒット、180万枚というひばりとしては最大のヒット曲となる。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』[3]、1967年には『芸道一代』、グループサウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演で話題となった『真赤な太陽』と、彼女の代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。

母・喜美枝との二人三脚時代

1964年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも一番上手くプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。

1970年、NHK紅白歌合戦の紅組司会を担当。紅白史上初めて、大トリと司会者を兼任した。このときの歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の『人生将棋』。

暴力団山口組三代目組長田岡一雄はひばりを庇護し、ひばりは1981年、父親代わりだった田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになる。

兄弟とひばりの苦悩

1973年、実弟のかとう哲也が起こした不祥事により[4]、ひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂、市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、パッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。

この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組のトリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した[5]。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった[6]。

1970年代以降、ヒット曲には恵まれなかったが、この時代に入ると演歌や歌謡曲のほかにも軽快なポップスやリズム歌謡、ジャズのスタンダードやオペラのアリアに至るまで自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。来生たかお(『笑ってよムーンライト』)、小椋佳(『愛燦燦』)、イルカ(『夢ひとり』)等、当代の話題のアーティスト / クリエイター等とのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年に発表した『おまえに惚れた』はこのキャンペーン活動が功を奏す形で久々のヒットとなった。

他方、1980年代に入り、実母の喜美枝、2人の実弟だった哲也と香山武彦、親友であった江利チエミらが次々と死去という悲運が続く。悲しみ・寂しさを癒すために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増し、徐々に体を蝕んでいった。

病魔との闘い

1987年4月、公演先の福岡で倒れ緊急入院、慢性肝炎及び両側大腿骨骨頭壊死と診断され、8月まで福岡市中央区内の病院にて療養。同年8月3日に退院し、10月に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディングより仕事に復帰した。

1988年4月11日、開場間もない東京ドームにて「不死鳥コンサート」を実施。脚の痛みに耐えながら計39曲を熱唱し、完全復帰であることをファンにアピールした。

1989年初頭、人気作詞家・秋元康が作詞、見岳章が作曲した『川の流れのように』を発表する。しかしこの時のひばりの肺は病に冒されていた。同年2月、福岡県北九州市での公演(これが生涯最後のステージになった)後に検査入院。一旦は退院し、同年3月には、ニッポン放送での10時間の特集番組へ生出演した。しかし結果的に歌以外では、このラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。

そのラジオ生放送終了直後、体調が急変したために順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院する。このため、同年4月に予定されていた、横浜アリーナでのこけら落としコンサートや、その他の全国ツアーも全て中止となった。そして、復帰の夢を果たすことなく、同年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全のため死去。52歳没。関係者によると手術室で全身麻酔をかけられたまま逝ったという。

同年7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀では4万2千人が訪れた。葬儀では王貞治が弔辞を読み上げ、北島三郎、森昌子などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、美空ひばりの霊前に捧げた。戒名は慈唱院美空日和清大姉。墓所は横浜市港南区の横浜市営日野公園墓地にある。

美空ひばりの通算レコーディング曲数は1500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。

昭和の代表する歌手として

没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞し、息子の加藤和也が授賞式に出席した。

ひばり亡き後も続くエピソード

福島県いわき市塩屋埼 美空ひばり遺影碑、コモンズ画像1988年、福島県いわき市塩屋崎を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の(結果的にこれが最後のレコーディング曲となった)歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。現在は毎年約30万人のファン・観光客が、ひばりを偲んで訪れる。

1993年、京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に惜しまれつつ一旦閉館となったが、運営主体を「ひばりプロダクションに変更し、2008年4月26日に京都嵐山美空ひばり座と改名のうえリニューアルオープンした。

2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。

死後10数年を経た現在も尚、日本を代表する伝説的ボーカリストとして多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。レコードの累計売上は8000万枚に達する。


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