小档案
チバユウスケ
ボーカル担当。楽曲によってはギターやタンブリン、マラカス、ハーモニカなどの楽器も使用する。また、thee michelle gun elephantの全楽曲の作詞も務める。結成当時から在籍。解散後はROSSOのボーカルとして活動。2006年に活動を休止するものの、クハラと共にThe Birthdayを結成し活動を継続している。
アベフトシ
ギター担当。1994年より加入[2]。解散後、長期の休養に入る。後にKOOLOGIに参加するも脱退、CARRIEを結成するが数本のライブで解散。現在、活動有無不明。
ウエノコウジ
ベース担当。結成直後に加入。解散後はメンバー中最も早く、Radio Carolineのベースとして音楽活動を再開させた。
クハラカズユキ
ドラムス担当。結成直後に加入。thee michelle gun elephantのリーダー。解散後、うつみようこ&YOKOLOCO BANDや、M.J.Qなどさまざまなバンドのメンバーとして活動し、2006年からチバと共にThe Birthdayを結成し活動を開始した。
大事件
1991年、明治学院大学のサークル「ソング・ライツ」内にて結成。結成時のメンバーは現行メンバーとほとんど異なっており、一致するのはチバのみである。
同学の学園祭で行われたライブを観覧していたクハラがチバに「おまえの後ろでたたかせてほしい」と申し出たため、当時のドラムス担当をクビにした上で[3]メンバーに加入することとなった。その後、ベース担当のメンバーが脱退し、クハラと親交の深かった[3]ウエノが後任のベース担当に選出された。
1991年4月3日、下北沢屋根裏にて初ライブハウス公演[2]。以後、都内を中心にライブ活動を開始。
1993年11月25日、ライブアルバム「MAXIMUM! MAXIMUM!! MAXIMUM!!!」をUKプロジェクトからリリース。 ライブを重ねるごとに徐々に動員を増やしていくなか、シガがメンバーから脱退し解散の危機を迎えたとされる。以後しばらくは3人で数回のライブ活動を行い、活動を継続していた。
1994年1月24日、メンバーが敬愛するDr.Feelgoodの元ギタリストであるウィルコ・ジョンソンの渋谷クラブクアトロでのライブにて、オープニング・アクトを務める。6月25日[2]、知人の仲介によりアベが加入し現行メンバーが揃う。
1995年8月31日、渋谷クラブクアトロにてワンマン・ライブ。10月21日、5曲入りCD &12inch ANALOG「wonder style」を自身のレーベルTRIPPIN' ELLEPHANT RECORDSよりリリース。
1996年2月1日、日本コロムビア内のレーベルであるトライアドよりシングル「世界の終わり」にてメジャー・デビュー。3月1日、1stアルバム「cult grass stars」をリリース。3月29日より『cult grass stars tour』(~5月7日。13都市13公演)がスタート。 11月1日、2ndアルバム「High Time」をリリース。12月13日より『High Time Tour』(~翌年2月12日。20都市21公演)がスタート。
1997年4月3日、初の海外ツアー『WORLD STEREO LYNCH TOUR』(~6月20日。2カ国14カ所17公演。ロンドンでは4公演)がスタート。10月21日、6thシングル「THE BIRDMEN」をリリース、テレビ番組のオープニングテーマに起用されヒット。11月1日、3rdアルバム「Chicken Zombies」をリリース。
1998年1月7日より『World Chicken Zombies Tour』(~4月24日。30都市52公演)がスタート。5月14日より『World Chicken Zombies Tour in the U.K.』(~5月20日。ロンドン3ヶ所/マンチェスター,ブライトン各1ヶ所)がスタート。8月2日、FUJI ROCK FESTIVAL 2日目のGREEN STAGEに2組目として初出演。11月25日、4thアルバム『ギヤ・ブルーズ』をリリース。12月13日よりホールクラスのオールスタンディング・ツアー『WORLD PSYCHO BLUES TOUR ~ ALL STANDING! MAXIMUM!!』(~翌年1月17日。大阪城ホール、横浜アリーナ他オールスタンディング8都市10公演)がスタート。
1999年1月17日、『WORLD PSYCHO BLUES TOUR FINAL』。会場は横浜アリーナが選ばれ、横浜アリーナとしては初のオール・スタンディング・ライブを開催。チケットは即完売となり、観客の動員人数は延べ1万5000人であるとされる。 当日観客席にいたロッキング・オン社長の渋谷陽一はこの光景を見て、感激して涙ぐんだと語る[4]。なお、その模様はライブビデオ『WORLD PSYCHO BLUES』にて鑑賞可能である。
また、この時期以降の数ヶ月間、興奮したファンがペットボトルをステージ上に投げ入れることによってライブが中断するなどの妨害がしばらく続いていた。詳しくは後述の備考の節を参照のこと。
4月2日より『WORLD GEAR BLUES TOUR』(~8月6日。国内40ヶ所62公演)がスタート。8月6日、MAXI SINGLE COLLECTION「RUMBLE」をリリース。8月21日、RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO 1999へ出演。8月27日より『WORLD GEAR BLUES TOUR』(~10月4日。イギリス4公演とアメリカ17公演)が再スタート。
2000年2月2日、10thシングル「GT400」をリリース。3月1日、5thアルバム「カサノバ・スネイク」をリリース。4月14日より『TMGE EUROPE TOUR 2000』(~4月21日。LONDON/LA2,PARIS,RENNES,EVREUX,BOURGES『“Pritemps BOURGES”ROCK FESTIVAL』)がスタート。5月6日、『WORLD CASANOVA SNAKE TOUR』(~7月26日。国内30都市43公演)がスタート。 7月29日、FUJI ROCK FESTIVAL 2000 2日目のGREEN STAGEにヘッドライナーとして出演 。 9月27日、11thシングル「ベイビー・スターダスト」をリリース。11月5日、CAVE STOMP 2000(N.Y. West Beth Theater Center)に出演。 12月13日、ベスト・アルバム「TMGE 106」、ライブ・アルバム「CASANOVA SAID “LIVE OR DIE”」を同時リリース。
2001年3月1日、ガレージ・ロックの伝説的ギタリストであるThe Piratesのミック・グリーンの来日時にアベ、ウエノ、クハラの3人がセッション。その時にレコーディングした曲をMick Green with TMGE名義にてシングル「KWACKER」としてリリース。3月22日、12thシングル「暴かれた世界」をリリース。5月13日、チベタン・フリーダム・コンサート2001に出演。 5月23日、6thアルバム『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』をリリース。同日東京・代々木公園にてフリーライブ『TMGE YOYOGI RIOT 20010523』を開催。朝から体育館前には長蛇の列ができ、雨天の中約2万人を動員し成功させた。 6月16日より『WORLD RODEO TANDEM BEAT SPECTER TOUR』がスタート(国内32都市43公演)。8月18日、RISING SUN ROCK FESTIVAL 2001に出演。 以降、ほんの一時的ながら活動が休止され、ライブや作品発表が途絶える。
2002年8月17日、RISING SUN ROCK FESTIVAL 2002に出演。9月28日、SOUND CIRCUS FUKUOKA 2002に出演。9月6日、『Where is Susie? TOUR』(国内11都市11公演)がスタート。12月25日、所属レコード会社をユニバーサルミュージック内のレーベルであるユニバーサルシグマに移籍し、13thシングル「太陽をつかんでしまった」をリリース。
2003年3月5日、7thアルバム『SABRINA HEAVEN』をリリース。4月7日より『WILD WILD SABRINA HEAVEN TOUR』(全国27都市36公演)をスタート。会場限定シングル「GIRL FRIEND」をリリース。6月21日、8thアルバム「SABRINA NO HEAVEN」を、会場限定だった14thシングル「GIRL FRIEND」を一般リリース。 6月27日テレビ朝日『ミュージックステーション』に初出演。その際、共演のゲスト、t.A.T.u.が生放送中に出演を放棄するという事件が発生。既に演奏を終えていたthee michelle gun elephantが埋め合わせとして急遽「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」を演奏した。 7月25日、FUJI ROCK FESTIVAL 2003 1日目GREEN STAGEに1組目として出演。 9月23日、『LAST HEAVEN TOUR』(~10月11日。11都市13公演)がスタート。
9月30日、ファンクラブ会員へ向けて封書にて解散を発表、翌10月1日にホームページにて公式発表される。ラストツアー『LAST HEAVEN TOUR』の最終日である10月11日、15thシングル「エレクトリック・サーカス」をリリース、幕張メッセでのライブをもって解散。約4万人もの来客があったとされる。
解散後は、メンバーそれぞれが様々なバンド、ユニットにて活躍中。