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风格
#原声 #交响乐
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

(本名:椙山 浩一、1931年4月11日 - )は、日本の作曲家。

日本作編曲家協会(JCAA)常任理事、日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員、国家基本問題研究所評議員、教科書改善の会賛同者、国籍法の是正を求める国民ネット代表委員、一票の格差を考える会代表、日本カジノ学会理事、日本バックギャモン協会名誉会長。ゲーム作品『ドラゴンクエストシリーズ』では作曲を一貫して担当している。

小简介

歌謡曲の大御所であり、数々のヒット曲を生み出してきたヒットメーカーとしてグループ・サウンズ世代からの知名度も高い。グループ・サウンズブームで一世を風靡(ふうび)したグループ、ザ・タイガースの命名者でもある。「小梅」(ロッテ)や「バーモントカレー」(ハウス食品)など、多種多様のTVコマーシャルの挿入曲も2,000曲以上手掛けている。正規の音楽教育は受けておらず、独学。本人が『N響アワー』にゲスト出演した際、「戦後まもなくで、SP盤のレコードでクラシックを聴いたとき、音質が悪く、伴奏を口ずさんでいたのが勉強になった」と語っている。過去に雑誌の対談で「音楽大学に入れる金がなかったから東京大学に進学した」と発言したこともあるが、当時のすぎやまは譜面は読めたがピアノ演奏はできなかった。

少数ではあるものの現代音楽も作曲しており、ロック、ジャズ、前衛音楽(ミュージック・コンクレート等)にも理解を示している。しかし演歌については「演歌こそ日本民族の音楽である、という権威付けは間違いである」「音楽芸術の面から見れば瀧廉太郎から始まり、すくすくと育った日本の音楽文化に暗黒時代を築いた、と断言してよい」「我々コンポーザーの間でも演歌を歌とは認めても、音楽的には優れた美しいものと認めている人は少ないのではないか」と否定的な見解を自著に記している。

名義にひらがなを使用しているのは、「杉山」と間違われたり、「椙山」を「まさやま」と読まれたりすることが多かったため。ただし、初期の曲の一部ではクレジットを漢字表記にしていたものがある。

趣味はクラシックカメラとゲーム(ビデオゲームに限らず様々なおもちゃ)の収集、読書と食べ歩き。

ザ・タイガースの収録で知り合った之子夫人は元ヴィオラ奏者。すぎやまのCD作品にしばしばスタッフとして登場する。長男の時宗大は、現在フジテレビで放送中の『ミュージックフェア』の演出をしており、親子2代でフジテレビの音楽番組ディレクターを務める。ドラマ『ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜』では音楽監修を担当した。

近年は独自の音楽レーベル、SUGIレーベルを設立、交響組曲「ドラゴンクエスト」の再演奏・再録音や自身の担当したJ-POPの管弦楽編曲版の録音の他、自身が推薦するザ・ビートルズ等の曲を弦楽四重奏等に編曲、演奏を小松一彦と東京都交響楽団の協力の下に録音するなど、次々に音楽CDを発売して活発に活動している。

経歴

生い立ち・教育

東京都出身。旧制東京都立第二十一中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)から新制成蹊高等学校へ進む。父親は東京大学薬学部出身の厚生官僚であったが自由主義思想を信条とするリベラリストであった。官僚だが賄賂(わいろ)を受け取らない実直な人物であったがゆえに、のちに左遷された。当時のすぎやまは、その意志を継いで薬学の道に進むため東京大学理科2類へ進学。しかし、元々興味のあった音楽を専門にしたいとの思いがあったため[1]、3年次になってから教育学部教育心理学科へ転部し同学部を卒業した。作家の青島幸男は中学校からの同級生であり生涯の親友であった。

大学卒業後は、勤めながら音楽の勉強ができると文化放送に入社。報道部へ配属され、番組で使用する曲の選定等を担当した。のちに希望であった芸能部に勤務。その後、これからはテレビの時代と感じフジテレビの開局前年の1958年にフジテレビへ移籍する。

フジテレビ入社後

テレビディレクターとして伝説的な世界初の音楽ランキング番組『ザ・ヒットパレード』や『新春かくし芸大会』、『おとなの漫画』など数多くの番組を手がけた。

当初フジテレビの上層部は『ザ・ヒットパレード』に難色を示したという。そこですぎやまは当時隆盛を誇っていたナベプロ社長の渡辺晋に相談し、ようやく放送にこぎつけたという(このあたりのいきさつはザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜としてドラマ化もしている)。しかし、貸し出されたスタジオは一番小さいものでスタッフと出演者全員が入ると狭く見えてしまう。そこですぎやまはカメラにワイドレンズをつけてスタジオを広く見せる方法を考案したという逸話がある。

フジテレビ在職中から作曲家としても活動していたが、フジテレビ内部からの反発もあり、音楽活動に専念するためとの理由で1965年に退社した(主に作曲者がクレジットされないCM音楽が多かったが、歌曲の作曲を依頼されたところ名が知れてしまい、社内に居られなくなったという)。しかし、それ以降もいくつかの番組制作に参加した。そのため、日本で初めて、自身を“フリーディレクター”と名乗り、これが今日のフリーアナウンサーやフリーディレクターなどの名称となった。

1968年に、フリーディレクターから作曲活動に専念することを決め、現在に至る。

ドラゴンクエストとの出会い

1986年5月に発売されたドラゴンクエストシリーズの第1作『ドラゴンクエスト』から2010年現在の最新作『ドラゴンクエストIX』に至るまで、全作品の作曲を手がけており、作曲だけでなく開発の初期段階(企画立案の段階)からプロジェクトチームの一員として参加している。その為、テストプレイヤーとしてもエンディングのスタッフロールで名を連ねている。

第1作目の『ドラゴンクエスト』だけは、開発の初期段階からの参加ではなく、ゲームをある程度プレイできる段階からの参加である。すぎやま本人は後にインタビューで「既にマスターアップ状態だったが音楽がしっくりこないということで依頼が来た」と語っているが、マスターアップの期日は当初の予定から数ヶ月延長されており、脚色を含む実録漫画『ドラゴンクエストへの道』では楽曲完成後にも延長の開発期間が描かれている。また同漫画では開発初期の段階から仮のオファーを受けていたかのような表現がされている。この時、すぎやまに与えられた時間はわずか1週間であった(前述の漫画では2週間とされている)。すぎやまはCMなどの音楽で短時間での作業の経験(最も短いもので、 12時間で仕上げる依頼もあった)が豊富であったため可能な作業でもあった。またすぎやまは「ちょうど作曲が好調な時期だったことも大きかった」としている。

1980年代前半にエニックス(現スクウェア・エニックス)から発売されたパソコン版ソフト『森田和郎の将棋』の駒の組み方に疑問を持ち、同ソフトに添えられていたアンケートハガキを自ら書いたが、ほったらかしにした時に家族が、販売元のエニックスに送ったところ、エニックスの担当者が「おい、あのすぎやまこういちからハガキがきたぞ」と慌てふためいたという逸話がある。そのハガキにびっしりと書かれた感想を見て、「これだけゲーム好きな人なら一緒に仕事ができるのでは?」ということで、すぎやまにゲームの作曲の依頼をしようということになった(ちなみに、アンケートハガキの名前がペンネームどおりひらがなで書かれていたため、初めは子供からの手紙と勘違いされそうになった[2])。『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』の作曲を担当した後の依頼が『ドラゴンクエスト』の作曲だった。

ところが、『ドラゴンクエスト』の初代プログラマー・中村光一(チュンソフト代表)は当初、有名な作曲家というだけでゲームというものを知らない方では困るという反対意見を持っていた。またすでに中村の仲間のサウンドプログラマーによる音楽ができていた。それで2人が初めて顔を合わせたときの中村の反応は、すぎやま本人の話によると「オレ達のグル-プによそ者が入ってきたな?とでも言わんかのような雰囲気だった」(みぎー工房より引用)という。

しかし話してみるとゲームの話で盛り上がり、特にすぎやまが若い頃にハマりにハマったという「ビンゴ」というゲームについて語ると、その瞬間から中村のすぎやまに対する態度が変わり、初めのよそ者を見るような目つきが、すっかり尊敬のまなざしに変わったとのこと。そして中村はすぎやまを「本当のゲーム好きで、驚くほどゲーム音楽というものを理解している」ということで、作曲の依頼を了承したという。

『ドラゴンクエスト』の「序曲のマーチ」のメロディは、出来上がるまでに5分とかからなかったという。しかしすぎやまは、それは「5分+54年」なのだと言い、それまでの54年の人生があって初めて「序曲」を世に生み出すことができたという。すぎやまは、作曲を依頼されて最初の打ち合わせでゲームの世界観を「中世の騎士物語」と説明され、まずリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』が頭に浮かび、そこで「クラシック音楽をベースにしよう」と基本コンセプトが固まったと語っている。

同ゲームのフィールドや戦闘中の音楽に関しては、「何百回も聞くものであるから、聞き飽きないものを心がけている」という。

現在でもシリーズ楽曲は交響組曲「ドラゴンクエスト」、イン・ブラスバンド、オン・ピアノ、オン・エレクトーン、弦楽四重奏、金管五重奏、吹奏楽、雅楽等に編曲され、演奏楽団を自ら指揮しコンサートを行っている。近年は東京都交響楽団などを中心にオーケストラコンサートを各地で行っており、人気を博している。

音楽以外では、1995年9月にバレエ「ドラゴン・クエスト」がスターダンサーズバレエ団によって初演され、以後も数年おきに再演されている。


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