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风格
#氛围音乐 #电子 #新浪潮
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

中 文 名: 平沢 进

外 文 名: Susumu hirasawa

国    籍: 日本

出 生 地: 东京

出生日期: 1954年4月2 日

简介

平泽进,1954年4月2日生于东京,日本主音、电子合成乐制作者,吉他手。

音乐经历

1979年,从Progressive 乐队“MANDRAKE”脱离出来的电子流行乐乐队“P-MODEL”组成,平泽进为其中一员,由华纳音乐出道。这种崭新的电子乐迅速的风靡一时。之后,乐队经历了反复的成员变更,到现在仍然精力充沛的活动着。1989年开始,除了参与P-MODEL乐队活动外,他同时开始个人发展。歌曲重心更加放在确定无国籍的歌唱风格上,让「过去」(神话/民俗的世界)和「未来」(SF/电脑的世界)在「现在」相会,建立起真正的「平沢世界」。

1994年开始,平泽进亲自设计出他的第一个交互式现场演唱会(interactive live)(使用电脑技术,根据观众的反应改变演唱会的进展,譬如说“Role playing live”,已经开展了多次,这也成了平沢活动中称为毕生事业的事。这种综合了电脑技术的娱乐表演,在业界外也得到了很高的评价。

1995年,P-MODEL加入新成员后再次开始活动,P-MODEL的第十二张大碟《舟》发行。

1996年,Live录像带《三界の人体地図/P-MODEL》在重新制作后再次发行。

1997年9月,举办interactive live《架空的Soprano》。P-MODEL发表第3张单曲。年末,P-MODEL的第十三张大碟《电子悲剧/~ENOLA》发行。

1998年平沢进发表个人大碟《救済の技法》。

1999年3月,平沢开始制作志摩スペイン的《lost legend》的原声带。平沢进和小西健司、Cluster的一员、レデリウス的unit“Grobal Trotters”一起制作的专辑《Drive》发售。

2000年12月,P-MODEL LIVE VIDEO《音乐产业废弃物~P-MODEL OR DIE》发表。10月,第八张个人大碟《贤者のpropeller》发表。同年11、12月,举办活动“interactive live show2000 贤者のpropeller”。

2001年5月,平沢发表第一张DVD《INTERACTIVE LIVE SHOW 2000 贤者のpropeller Version1.4》。10月时发表大碟「SOLAR RAY」。并且,11月,史上第一次,仅以自然能量进行的live“LIVE SOLAR RAY”成功举办。

2002年,由平沢制作的动画《千年女优》的音乐在第5回文化庁媒体艺术祭中获得动画类大赏。同时,平沢进《interactive live show 2000 贤者的Propeller》获选评委推荐作品,并获得Digital contents Grand Prix 2001大奖,同时,他的Live获得最高奖经济产业大臣赏及娱乐类最优秀赏。9月,《千年女优 Original sound track》发表。

2003年,平沢进发表第九张个人专辑《BLUE LIMBO》。

2004年,为追悼泰国友人SP-2发表专辑《SWITCHED ON LOTUS》。并且参与制作了今敏的TV动画《妄想代理人》原声带。

2005年,平沢进和P-MODEL发表DVD《LIVE VISTORON》,发表了吉他专辑《ICE9》。

2006年,发表个人第十张专辑《白虎野》。为今敏的动画电影《PAPRIKA》制作OST,动画主题曲名为《白虎野少女》。

2007年发表其个人为动画影视创作的歌曲精选辑《映像のための音楽~平沢进世界》。

2008年,与意大利死亡金属音乐人InhVmaN - Riccardo Brett合作制作了3首歌曲,收录于专辑《Tetragrammaton》。

2008年,发表了LIVE CD编集《PHONON 2550 LIVE》。

2008年,发表自己的第一本摄影集,关于泰国特殊友人的《SP-2》。

2009年,发表第十一张个人原创专辑《点呼する惑星》。

2012年,发布第十二张专辑《现象の花の秘密》。

2015年11月,发表专辑《ホログラムを登る男》。

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平沢 進(ひらさわ すすむ、1954年4月2日 - , 実際は1954年4月1日 - )は日本のミュージシャン、音楽プロデューサー。愛称は師匠、ヒラサワ。

1970年代半ばからプログレッシヴ・ハードロックバンドのマンドレイクで活動し、1979年にP-MODELのヴォーカル・ギターとしてメジャーデビュー。1989年以降はソロ活動も行っている。

来歴

1965年頃、THE SPOTNICKS[2]に触発されエレキギターを手に取り音楽活動を始め、1973年頃、HR/HMバンド「マンドレイク」結成。年々プログレッシブ・ロックに傾倒していき、レコード会社数社に声を掛けられるほど成長したが、1978年に解散する。

解散前には既にP-MODELへの模索が始まっており、マンドレイクのメンバーであった田中靖美と共にバロック音楽などをアレンジしたものを製作。音源は「配線上のアリア」として1994年にCD化されている。

P-MODELデビュー前後の1978年頃から1983年頃まで、顔出しを必要としない職であることからヤマハのシンセサイザー教室の講師としても働いていたことがあり、P-MODEL新メンバーもここから選出していた。1978年、週刊プレイボーイ誌上で行われたシンセサイザーの多重録音コンテストにおいて、平沢の作品「いりよう蜂の誘惑」が入賞する。これは入賞作品を収録したアルバム『驚異の頭脳集団』に収められメジャーリリースされた。

1979年元旦に結成したP-MODELのリーダー兼ボーカリストとしてメジャーデビュー。その活動と平行して、ペンネームでの楽曲制作を行い、プロレスラー・長州力の入場テーマ曲であるオリジナル曲「パワー・ホール」を「異母犯抄」というペンネームで作曲した。また、アーティストプロデュースも行い、シンセサイザー教室の生徒だった折茂昌美、足立眞理を「Shampoo」として、P-MODELのコピーバンド大会優勝者「PEVO」をメジャーデビューさせる。二組は現在でも平沢と親交を続けている。

1984年、実験的サンプリングユニット「旬」を結成。以後断続的にアルバムを発表していくが、1996年を最後に活動していない。

1988年12月、P-MODELが「凍結」と呼ぶ所の活動休止を宣言。1989年1月にはファンクラブ会員に全編CGで作られたビデオ『CG年賀状』が送られP-MODEL解散の経緯とソロ活動開始の発表を告げ、同年9月、アルバム『時空の水』リリースにてソロデビュー。同時期に所属事務所をMODEL HOUSEからアイスリープロモーションへ移籍する。

1990年代からはソロ活動に平行して、ヤプーズ、島崎和歌子、宮村優子らに楽曲提供し、アニメ作品の音楽製作にも進出。『DETONATORオーガン』、『剣風伝奇ベルセルク』、2000年代には『妄想代理人』や映画『千年女優』、『パプリカ』の音楽を手掛ける。

1991年、ツアーライブ「ヴァーチュアル・ラビットツアー」においてP-MODELを「解凍」宣言し、3年間限定活動という制約をつけて活動再開。その後アルバム2枚を発表して1993年、P-MODELが「待機」として再度一時的な休止を宣言。

1994年、7月8日より翌年の1995年3月31日まで『平沢進のテクノ実験工房』がFM群馬にて放送される。同じくパーソナリティーを務めたのは、上野洋子(元ZABADAK)と改訂P-MODELメンバーとなる福間創だった。この番組の内容は後にカセットテープで平沢の当時のファンクラブ(HIRASAWA BYPASS)より限定発売された。

同年、P-MODELの「改訂」を終え活動再開。

1996年11月15日の東京・新宿リキッドルームにおいて、オールナイト・イヴェント“Unfix ♯3 コミュノ・ハイブリディア”が開催された。平沢を含むP-MODELのメンバー4人がそれぞれソロステージを行うというものだったが、平沢は欠席。理由は「風邪のため」と発表されたが、数日後平沢自身がGHOST WEB上において「私は風邪ごときで休むような人間ではない。休んだ本当の理由は言えないが」という発言がなされた。

1997年、平沢はそれまで所属していたアイスリープロモーションを離脱し、自ら新事務所ケイオス・ユニオンを設立した。新事務所発足の手紙によると、前年の欠席は「殺人的なスケジュール」による平沢の心身の不調だったものと書かれている。公式ファンクラブも「HIRASAWA BYPASS」から「Green Nerve」と変更する。「HIRASAWA BYPASS」から発売されていたVHSやグッズなどは入手困難となるが、現在では「Green Nerve」より一部がDVD化・グッズの復刻がされている。

1999年、プログレッシブ・ロック・バンド、Cluster(クラスター)のメンバーであるRoedelius(レデリウス)および小西健司(4-D・P-MODEL)と、ネット上でのやり取りだけでコラボレーションを行い、「Global Trotters」としてアルバム『Drive』をリリースする。自らが手がける楽曲では独特の裏声を駆使した歌唱法で歌い上げ、歌詞でも「君」を「キミ」と表記するなど特徴的なこだわりが見られる。

2000年12月、P-MODELが「培養」と呼ばれる所の活動休止を宣言。平沢に活動再開の意思は無く、事実上の解散である。同年、アルバム通算8枚目となる「賢者のプロペラ」よりケイオス・ユニオンからCDを発売。

2001年7月、「Hirasawa Energy Works」と名付けられたプロジェクトがスタート。これは必要な電気エネルギーの全てを太陽発電に委ねて音楽製作を試みるプロジェクトであった。この際にアルバム『SOLAR RAY』が製作される。その後太陽発電及び、このプロジェクトに賛同するファンの協力による自然からの蓄電(エナジーハンティング)のみを利用したライブ「SOLAR LIVE」を敢行する。このプロジェクトはNHK BS2やTBSで特集された。この時作られた自宅スタジオ「ソーラースタジオ」は現在でも使用されている。

2003年、イラク戦争に際して、これに対する抗議の意思を表すべく「殺戮への抗議配信」と題し、自らの楽曲「高貴な城」「Love Song[2003年バージョン]」の無料配信を行った。これは2013年1月現在でも公式サイト内から無料でダウンロードが可能である。 2003年3月、ペンネーム「坂田四郎」名義としてゆいこのシングル「陸の人よ」(アサヒビール『穣三昧』CMソング)の制作を手掛けている(CM使用部分は平沢が作曲、残りはゆいこ作曲)。 NHK『おかあさんといっしょ』の2003年10月の歌「地球ネコ」を作詞作曲(歌唱は今井ゆうぞうとはいだしょうこ)。幼児向けの番組に提供された楽曲ではあるが、歌詞を多少シンプルにしているだけで平沢の楽曲スタイルは一貫して崩されていない。2006年12月に同番組内で再放送されている。

2007年より今までの「インタラクティブ・ライブ」とは異なる「ノン・インタラクティブ・ライブ」として「LIVE PHONON 2550」を開催。その後も継続的に開催しており、ライブDVDも合わせて発売されている。

2008年6月、イタリアのデス・メタル系ヴォーカリストRiccardo Brett (InhVmaN)との共作でマキシ・シングル「Tetragrammaton (テトラグラマトン)」をリリース。

2011年6月24日、「パレード・パンクの期間労働者」を名乗るステルスマンなる人物にオフィシャルサイトを占拠され、「原子力」という楽曲(P-MODELの「BOAT」を編曲・歌詞を改変したもの)を2011年6月29日まで無料配信される。後に平沢はステルスマンから奪った「原子力」のカラオケ音源をオフィシャルサイトで無料配信した。

2015年11月、13thアルバム「ホログラムを登る男」発売。

核P-MODEL

2004年、平沢一人が「核P-MODEL」なる名義で断続的に活動開始[注釈 5]。アルバム「ビストロン」発表、ライブ「トーキョービストロン」を行った。

2005年、2008年には中野ブロードウェイに存在するお店「メカノ」限定のマキシシングルを発売。

2013年、平沢の兄YOU1プロデュースのニュー・ウェイヴ喫茶「GAZIO」がオープン。4月26日から30日までプレオープンイベント「CYCLE-Z」を開催し元メンバーも来店。その中で核P-MODELの新譜の制作を開始することが発表され、同年11月、「гипноза」発売。

2014年1月、ライブ「パラレル・コザック」を行い、10月には平沢ソロと核P-MODELのハイブリッドライブ「HYBRID PHONON」が行われた。

2015年、メカノ開店10周年を記念したコンピレーションアルバム『築10年』に『гипноза』収録曲のバージョン違い「白く巨大でt0t1」を提供した。

2018年4月、今敏の漫画原作の映画「OPUS」のテーマ曲を核P-MODEL名義で製作すると発表[4]。同年9月5日回=回発売。9月14日、15日に大阪、11月16日、17日に東京でライブ「回=回」が開催され、東京以外では初の核P-MODELの公演となる。


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