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风格
#都市流行
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

大江 千里(おおえ せんり、Senri Oe 、男性、本名同じ、1960年9月6日 - )は、シンガーソングライター・ミュージシャン(アーティスト)。

小简介

カジュアルなルックスで、「男ユーミン」と称されたこともある。

「あいたい」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などのヒット曲を飛ばし、作詞・作曲・編曲家としても松田聖子・渡辺美里(大江とは「プラチナ・コンビ」と呼ばれた)らに数多くの楽曲を提供、その他プロデュース業も行っている。また、音楽活動の他に、映画・TV問わず俳優や、テレビ司会者、ラジオパーソナリティー、エッセイストなどマルチな活動をしている。現在はニューヨークに在住。

大事件

1960年9月6日、東京都板橋区成増で生まれる。すぐに読売新聞の記者である父親が大阪本社に転勤したため、大阪府藤井寺市に移り住む。

1963年、3歳の時からクラシックピアノを習い始める。きっかけは幼稚園にいたピアノの上手な女の子にあこがれたと言う。ちなみに先生は女子高校生だったと言う。当時、「男がピアノを弾くのは変だった」と述べている。トイレットペーパーの芯をマイク代わりにして梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」を歌っていたこともある。

1967年、藤井寺市立藤井寺西小学校入学。春日丘団地に住む。

1970年、小学4年生の時に聞いた、ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」をきっかけにポップスに開眼。

1973年、父の読売西部本社への転勤のため藤井寺から福岡県北九州市の小倉に移り、北九州市立霧丘中学校に2年間通う。この頃に自ら作詞・作曲を始める。

1974年、初めてのオリジナル曲「さらば灰色の街」を作る。この曲は、公害をテーマにしたもので、12分、7番の歌詞と言う大作である。大阪から北九州に移った時のことを歌っている。さらに、ブラスバンド部にも入部する(「三人目のパートナー」はこの思い出にちなんだ曲)。日本テレビ「スター誕生!」の予選に出場するが、落選した。

1975年、「風」のコピーバンドもやり、大江はエレクトーン担当で、もう一人はギターを担当していた。

1976年、再び大阪に戻って大阪狭山市の金剛団地に居住し、大阪狭山市立南中学校に転校する。その後、大阪府立富田林高等学校に入学し、ジャズにも興味を持つ。

1977年、ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン。曲は「エメラルドの風の中」)の関西地区予選に出場するが、落選した。

1980年、一浪して夕陽丘予備校に通った後、関西学院大学経済学部に入学。すぐに軽音楽部に入り、「トニオ・クレイガー」というアマチュアバンドを率いて、自主オリジナル曲を演奏する(「君はマドンナ」など)。神戸や芦屋等のライブハウスにも出演する。また、別に同級生と「オフィス宮川」も結成している。

1981年秋、関学2回生在学中にCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)から「トニオ・クレイガー」の時にスカウトされ(あくまでデビューはソロ志望だった)、その後、SDオーデションで最優秀アーティスト賞を獲得、三度目の正直でプロになる。曲は「サーファーブームがやってくる」(後の「瞳きらきら」)、「渚のONE-SIDE SUMMER」(現在のものとは多少違う)。しかし、大学生活や一層の音楽の勉強に励むためすぐにはデビューしなかった。

1983年2月27日、STV「サンデージャンボスペシャル」で、プロとしての初ステージを踏む。札幌・STVホールで「JANUARY」の弾き語りを披露した。これがプレデビュー的なものとなる。その後、番組レギュラーに隔週で起用され、口コミで広まった結果、「最初にレコードが売れたのが札幌だった」と述べている。

1983年5月21日、EPIC SONY(現・エピックレコードジャパン)からシングル「ワラビーぬぎすてて」、アルバム「WAKU WAKU」にて本格デビューした。プロデューサーは大村憲司。当時のレコーディングは、六本木ソニースタジオの「A」と「B」スタジオを使用して行われる。青山純や中村哲などの一流ミュージシャンを起用してのデビューアルバムは、こうした背景があるため音楽的な意味でレベルが高い。またアレンジには当時の洋楽トレンドを上手く練り込んでもいる。キャッチフレーズは「私の玉子様、スーパースターがコトン」(作者は当時コピーライターだった林真理子)。

デビューライブは5月21日に神戸チキンジョージで行われた。東京における初めてのライブは、新宿ルイード(現在は閉鎖)での白井貴子とのジョイントである。11月6日、在籍中の関学の学園祭(後夜祭)に出演する(1992年にも出演を果たす)。当時は関学の現役の学生だった為、東京~大阪間の移動を繰り返しており、当時のEPIC SONY宣伝担当に「日本一忙しい大学生」と呼ばれていた。

1984年1月、初のホールコンサートである「Boys&Girls Together」を東京・日本青年館と大阪厚生年金会館で行う。3月26日に関学を無事卒業し、東京へ引っ越す。11月、CM初出演となった、味覚糖(現・UHA味覚糖)「DATE KISS」のCM曲「十人十色」がスマッシュ・ヒット(出世作)し、一躍人気ミュージシャンの仲間入りを果たす。

1985年、コンサート(「未成年ツアー」、「千里が街にやってくる」)、学園祭で全国を回る。チケットは即日売り切れ、全国的に「チケットパニック」を引き起こす。

1986年、8月には軽井沢音楽祭ライブを軽井沢プリンスホテル野外特設会場で行なう。

1987年、「AVECツアー」で初めての日本武道館ライブを実現させる。渡辺美里がゲストとして出演、「本降りになったら」をデュエットで歌った。

1988年7月、夏のライブイベント「納涼千里天国」開始(群馬県・浅間高原)。

1992年3月、日本テレビのスペシャルドラマ「夢見るくらい、いいじゃない」で音楽監督を務める(大江のオリジナル曲によるもの)。

1993年にデビュー10周年を迎えた。

1994年、納涼千里天国が横浜スタジアムで行われるが、大雨と雷雨のため40分遅れのスタートとなる。ゲストには、フジテレビ「ポンキッキーズ」のガチャピンとムック、そして伊集院光が出演した。

1995年、1月17日5時46分52秒に起きた阪神・淡路大震災を受け、2月に西宮市でボランティア活動を行い、炊き出し作業や小学校でピアノ一本による弾き語りライブを行う。同じく被災者救済を訴えていた泉谷しげると組み、東京駅地下街で3月20日にゲリラライブを開催。さらに、泉谷と共に嘉門達夫(神戸のホテルに宿泊中地震に遭遇した)の震災チャリティーシングル「怒りのグルーヴ〜震災篇」にもコーラスで参加した。そして、8月12日に 神戸メリケンパークで泉谷が中心になって「日本をすくえ」ライブにノーギャラで出演した(1996年も実施)。さらに、千葉マリンスタジアムで行われた「納涼千里天国」にも泉谷がゲスト出演(乱入)し、「春夏秋冬」を披露した。

1996年、5月4日の渋谷タワーレコードがきっかけで、CDのリリースの度に、日本の主要都市でのCDショップでインストアイベントによるトークショーと握手会を行い、さらなるファンとの交流を深めていた(2007年まで)。納涼千里天国がハワイ・シーライフパークで行われ、初の海外ライブを実現させる。

1997年、大江が司会をしていたNHK「トップランナー」で引田天功がゲストの時、大江が天功に捧げる曲を披露し、この曲が後にアレンジされ、翌年のアルバム「ROOM802」に入っている「The Muses」になった。納涼千里天国が初の全国ツアー形式で行われたが、7月27日の広島ドルフィンビーチが台風のためデビューして以来初めての中止。このため、納涼千里天国は2002年まで開催されなくなる。

1998年、デビュー15周年記念ライブを東京、横浜で行い、スペシャルゲストには、渡辺美里、国本武春、引田天功が駆けつけた。映画「ドラえもん」の劇中音楽を担当する(1999年も担当)。

1999年、初の試みであるアコースティックライブ「4ward」を行う。

2000年、デビュー以来所属していたEPIC SONYから離れ、自主レーベル「Station Kids Records」を立ち上げた。大晦日には、21世紀カウントダウンライブを東京グローブ座で行い、ファンと共に21世紀を祝った。

2002年、初のディナーショーを名古屋ウェスティンホテルで開催。

2003年、2月にはエピックレコードジャパン25周年記念イベント「LIVE EPIC 25」に参加。5月21日にデビュー20周年を果たした。20周年を記念して、6年ぶりに納涼千里天国が復活する。大江が司会のTOKYO FM「大江千里のLive Depot」に岩崎宏美がゲストで出演した際に意気投合し、その後ピアノによるカバー曲や、大江が作詞・作曲・編曲した曲を提供した。

2004年、日本テレビ「インディーウォーズ」では一緒に司会をしていた山川恵里佳とのユニット(elllie with senri)を番組のために結成させる。池上本門寺で行われた「納涼千里天国」で、elllie with senriの「ひまわり」が披露され坂本ちゃんがゲスト出演した。

2005年、渡辺美里の西武ドームラストライブにDonDokoDonの山口智充と共にゲスト出演した。

2007年、8月11日の新潟市政令指定都市記念「日本海夕日コンサート」に出演。8月末、11年ぶりのハワイライブ「まるごと千里ナイト!!Vol.21~ハワイ編」を行う。12月13日から12月16日まで六本木・俳優座劇場で引田天功の「プリンセス天功まつり」の音楽を担当する。12月22日、ニューヨークでジャズを学ぶため、国内での音楽活動を長期休業すると自身のブログ「千里の森」で発表した。一部に「引退説」もあったが、本人は一切否定している。現在は曲作り、「千里の森」が引き続き行われており、健在ぶりをアピールしている。

2008年、ニューヨークに渡り、長期滞在を始める。秋公開の映画「能登の花ヨメ」(白羽弥仁監督)の音楽監督を務める。がん撲滅のための集団「スター混声合唱団」に参加する。5月21日、デビュー25周年を迎えた。

2010年、5月21日にデビュー27周年を迎えたが、この日、2007年末の国内での音楽活動休止以来初めて、日本へ一時帰国する。これを機に自らツイッターを開始する。7月中旬にニューヨークに戻る。


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