小档案
乐 队 名 スピッツ(Spitz)
经纪公司 ユニバーサルJ(2002年 - )
事 务 所 Grasshopper(Road & Sky Group)
成员档案
姓 名 草野正宗(Kusano Masamune)
出生日期 1967年12月21日
出 生 地 福冈县
血 型 O型
身 高 167cm
体 重 52kg
担 当 主唱、吉他
姓 名 三轮彻也(Miwa Tetsuya)
出生日期 1967年5月17日
出 生 地 静冈县
血 型 B型
身 高 167cm
体 重 50kg
担 当 吉他
※ Bass ※
姓 名 田村明浩(Tamura Akihiro)
出生日期 1967年5月31日
出 生 地 静冈县
血 型 A型
身 高 167cm
体 重 50kg
担 当 贝斯
姓 名 崎山龙男(Sakiyama Tatsuo)
出生日期 1967年10月25日
出 生 地 木县
血 型 B型
身 高 167cm
体 重 50kg
担 当 鼓手
乐队简介
SPITZ,日本知名乐团。成军于1987年,灵魂人物为主唱草野マサムネ。
草野正宗从高中以来就很想以SPITZ这个名字组团,因为Spitz犬短短小小很可爱,所以草野不仅以SPITZ写歌,也想以此为团名,但是在当时的团员强烈反对之下,他只好放弃这个想法,一直到大学时与团员相遇组团才能如愿以偿。而且草野特别偏好有S跟P的英文字,所以SPITZ这个名字是他的特爱。
演艺经历
1991年-1999年
1991年,就在日本80年代后半期所谓的“乐队盛世”已经开始走下坡路时,一个可以成之为它的末裔的四人组乐队问世了。虽然受到了部分业界人氏的关注,但销售量却根本进入不了记录,以非常朴素的面貌迎来了它的开端。
91 年3月25日,以同时发行的首张单曲《云雀之心》和首张大碟《SPITZ》,宣告出道。确实是一副初出茅庐的乐队的样子,歌词本除了封面以外都是黑白的颜色、用看起来似乎是很廉价的纸张制成的。然而,竖写的歌词却并不灌以“作词、作曲”的说法,取而代之标注为“诗、曲”。虽然还只是个微不足道的乐队,CD 包装却体现了他们独特的存在感、明确的方针和理念。
事实上,这个乐队叫做SPITZ的乐队早在1987年便已成立。最初由就读于同一所大学的草野正宗(Vocal)和田村明浩(Bass)组成。田村邀请了自幼认识的朋友三轮彻也(Guitar),再挖掘到三轮的校友、当时在业余乐队中相当出名的鼓手崎山龙男(Drum),共同组成了SPITZ。当时的SPITZ,走的是硬摇滚的路线,与如今质朴清新的风格完全不同。以能够出演新宿的 live house“LOFT”为目标,专念于音乐发掘的他们坚持不懈地一次次争取着新宿和涩谷live house的演出机会,练就了良好的团队默契;也发表过磁带和薄膜唱片(Sonosheet)。89年7月12日,实现了组队以来的愿望--新宿LOFT 的live,吸引到了300名观众。90年3月,发表了地下时期的大碟《云雀之心》(据说此绝版之作在日本被称为“梦之名盘”,炒卖至十万日元!!)。
如前所述,这个坚持地下时期延续而来的朴实无华作风的乐队,在出道头几年的日子里,并没有吸引世人很多的瞩目,到93 年为止,又相继已发表了大碟《给起个名字》《行星的碎片》《Crispy!》和管弦乐风的mini大碟《为了不能成为曙光的人》,乐队始终处在默默无闻的境遇中。然而,从第6张单曲开始的与名监制的笹路正徳的合作,成为了他们转变境遇的契机。笹路抓得到SPITZ音乐素质上的优点与商业上消费者口味之间取得一个平衡点,在推广他们的音乐方面开始走向成功。这段时间他们尝试过激进摇滚风味的挑战(3rd《行星的碎片》)和管弦乐风的添加(4th 《Crispy!》和5th《天空飞行法》),之后又回归朴素清新的风格。《在你成为回忆之前》、《定能飞向天空》等等单曲都取得了突破性的成功,渐渐带来了他们人气的提升。
1995 年,SPITZ发表的第11张单曲《Robinson》,迎来了他们首次百万销量的大Hit。虽然在排行榜上最高名次不过第四,但却上榜15周之久.(顺便一提,《Robinson》后来也被选为KIRIN午后红茶的广告曲)随后同年发表的新大碟《蜂蜜》初登场直达第一,创下了长达57周的连榜中停留时间。以往几年的旧作,也由此开始为世人重新发觉和欣赏,接二连三地成为Hit之作。他们的第13张单曲《Cherry》的出炉,成为了和同日发表的Mr. Children的《花》抗衡的作品,在没有任何Tie-up作用的支持下初登场第一位。SPITZ一路人气直升,这个乐队名称开始成为日本摇滚乐界具有传奇色彩的名字。
处于人气颠峰的SPITZ,却疲惫和苦恼于自己“过红”的境况。他们重新站立到不为销售量所干扰的出发点上,一边重新审视和改进自己的演奏水平,一边对音乐风格和表现手法进行更精致的探索改良,96年发表的第7张大碟《INDIGO地平线》抛开当年人气正中的成绩外衣,至今看来也还是实实在在的异色佳作。在大碟发表的同时,他们开展了首次超级长期的巡演“SPITZ JAMBOREE TOUR'96-'97”,共计70场,直至97年5月。而在97年,除了他们暂停了出道以来的每年连续的大碟发表,开始参加夏季活动,悄悄地举行了纪念组队10周年的secret live,他们的外表沉寂带来了歌迷们的焦虑不安。 单曲《スカーレット》以后,在肯定了成员们的制作实力之后,为便于乐队更广的独立发展空间,笹路正德脱手了他们监制工作。98年,发表了第八张大碟《fake fur》(合作监制:棚谷祐一)。SPITZ重新开始了的主要以自我监制为主的音乐制作。不难发现表现手法的日趋成熟和自然化的同时也开始向新的音乐方向前行探索的萌芽。
99年1月1日,发表了他们在乐风探索上的试验成果《99ep》,3月份发表了特殊合集《花鸟风月》,收录了以往单曲的一些coupling song以及地下时期的未发表曲等,作为一个音乐界的中坚乐队,也拥有了稳固的歌迷群体,SPITZ基本上摆脱了“走红时期”的迷惑与困扰,重新稳扎稳打地按照自己的步调专注于自己的音乐追求。这个时期的作品,虽然完全不为销量而作,却尽现幕后的经典,如《花鸟风月》中收录的以往单曲的coupling song《Spica》《想变成猫》《我的全部》等,成为了真正歌迷群中的至尊经典,live的必唱曲目。4月~6月,举行了歌迷会的限定live「spitz bergen tour'99 "GO!GO!Scandinavia vol.2"」。年底赴美国迈阿密开始新大碟录制工作。似乎一切在顺利之中进行着,却传来令成员们震惊与不满的消息:唱片公司为了弥补亏空,擅自将过去“走红时期”的单曲编成精选集发表,这张碟就是《RECYCLE》,这个事件传说中被称为“迈阿密打击”(*详情注解*)。虽说这个事件伤害了成员及歌迷们的感情,但它某种程度上标志着一个“终结点”,对于过去“卖点时期的SPITZ”的自我完结。而同时也让人们更加期待乐队以更猛的气势和崭新的姿态去揭开全新的一页。
2000年-2009年
2000 年,时隔2年零4个月、引满以待的第9张大碟《隼》发表了。饱含着30而立的男人情感和迸发着火热摇滚灵魂的这张作品,掀开了SPITZ乐风的全新一页,也是将四位成员各自才华完全绽放的佳作,受到了各方面由衷的绝大好评。“SPITZ的最高杰作”的呼声也此起彼伏。9月起开展巡演「SPITZ JAMBOREE TOUR“放浪2000”」。
2001年迎来了他们major出道的十周年,春秋两季巡演、例行的夏季盛会以及首次韩国公演,都在这一年中声势浩大地展开。
2002 年依旧是他们持续繁忙的一年。从2月下旬进入录制工作,8月7日同时发表了第26、27两张单曲《羽毛》和《水色之街》。紧接着9月11日,第10张大碟《新月摇滚》火热出炉。新大碟在保持了十几年来贯彻始终的SPITZ风貌的同时,进化得更加硬朗和丰满,也更多得沉积了这个经受风雨磨练的老牌乐队的成熟与稳实的底蕴。连带着新作的制作与发表,新的巡演“SPITZ JAMBOREE TOUR‘双六2002-2003’”从2002年秋季开始,延续到2003年6月下旬圆满结束。
8 月16日至9月上旬依旧是他们的历年夏季盛会SPITZ 2003 SUMMER EVENT。这个似乎蕴藏和可以绽放永久能量的乐队,无论身处何种境遇,永远只是披戴着朴实无华的外表,忠实于自己的步伐,没有因岁月长河的冲刷而褪色,也没有因时代潮流的风云变化而易容。他们以清新朴素和平易近人的姿态相对独立于这个纷繁复杂的世界中,创造并革新着自己纯粹的音乐世界。
2003年发行第十张专辑《新月摇滚》,12月发行放浪2000・隼2001・纯情2001・双六2002-2003DVD。
2004年1月21日,第28张单曲《Stargazer》发表,7年久违后的再度单曲周榜第一位,虽然不乏受tie-up效应的影响,却着实让陪同和见证他们走过这么多年风风雨雨的歌迷们无不感慨万千。并非对于销量的数字的决胜,而是不断自我超越和登峰造极的音乐水准。3月17日,收录了从《99ep》以来的大碟未收录曲的、类似于《花鸟风月》性质的合集《色色衣》发表。它是SPITZ这几年中乐风研究中试验性作品的集合,同样是一张至今最高的精品集。据称是偶像男星山下智久最喜欢的一张CD。11月发行单曲《正梦》。
2005年1月12日,第11张大碟《スーベニア》发表,orincon初登场第一位。在继承了《新月摇滚》的编曲风格的同时更添加了弦乐、民族乐器等等。曲风也趋于多元化。这似乎又在告诉我们,SPITZ依旧没有驻足于现有的音乐状态,依旧不断地向着更新异更开阔的领域拓展。这张大碟相应的巡演「あまったれ2005」也在春秋两季热烈上演。4月发行第30张单曲《春之歌》。
2006年发行两张精选集。第31张单曲《魔法的语言》成为《蜂蜜与四叶草》的主题曲。
2007年发行单曲《群青》。
2008年发行第34张单曲《若叶》,电影《樱之园》主题曲。
2009年发行第35张单曲《君は太阳》,「ホッタラケの岛~遥と魔法の镜~」主题歌。
2012年发行翻唱专辑《おるたな》,其中《タイム・トラベル》(时间旅行)成为《我与明星的99日》的主题曲。
プロファイル
バンド名 スピッツ(Spitz)
レーベル ユニバーサルJ(2002年 - )
事 務 所 Grasshopper(Road & Sky Group)
成员档案
名 前 草野正宗(Kusano Masamune)
誕 生 日 1967年12月21日
出 身 地 福岡県
血 液 型 O型
身 長 167cm
体 重 52kg
担 当 ボーカル、ギター
名 前 三轮彻也(Miwa Tetsuya)
誕 生 日 1967年5月17日
出 身 地 静岡県
血 液 型 B型
身 長 167cm
体 重 50kg
担 当 ギター
名 前 田村明浩(Tamura Akihiro)
誕 生 日 1967年5月31日
出 身 地 静岡県
血 液 型 A型
身 長 167cm
体 重 50kg
担 当 ベース
名 前 崎山龙男(Sakiyama Tatsuo)
誕 生 日 1967年10月25日
出 身 地 木県
血 液 型 B型
身 長 167cm
体 重 50kg
担 当 ドラマー
バンド紹介
スピッツ(Spitz)は、草野マサムネ、三輪テツヤ、田村明浩、崎山龍男の四人から成る日本のロックバンド。
進学のために上京した4人が集まり1987年に結成。新宿ロフト、新宿JAM、渋谷ラ・ママ、下北沢屋根裏など都内のライブハウスを中心に活動し、1991年にポリドールよりメジャーデビュー。以来メンバーチェンジは一度もない。所属事務所はロード&スカイ(2001年よりスピッツのマネージメント事業はグラスホッパーとして分社化)。1995年にシングル「ロビンソン」がロングセラーとなりブレイク。詳細は後述の来歴の節を参照のこと。
バンド名「スピッツ」は草野が高校時代から温めていた名前。草野は「s」に「p」が続く単語(「special」や「crispy」など)が好きであり、辞書でこの単語を見つけ発音やその意味(ドイツ語で「尖っている」「辛辣な」)が気に入ったことから命名された。また結成当初はパンクバンドであったことから(来歴を参照)、昭和時代に人気があった愛玩犬種日本スピッツに絡め、「小さい犬ほどよく吠える」という後付の意味も込めている。「スピッツ」は英語風の発音に基づいており(本来のドイツ語発音では「シュピッツ」)、デザイン上アルファベット表記も多用されるが、カタカナ表記が正式である。
スピッツのファンクラブ「spitzbergen(スピッツベルゲン)」は、草野が世界地図から見つけた北極海に実在するノルウェー領の島「スピッツベルゲン島」からとられた。1995年にファンクラブ会員のみのライブ&トークイベント“GO!GO! スカンジナビア!!”が行なわれ、1999年より“GO!GO! スカンジナビア!!”はファンクラブ会員のみのライブハウスツアーとして3、4年に一度開催されている。
1997年より毎年夏に大阪を中心に関西圏で開催されるイベント“ロックロックこんにちは!”を主催し、2001年からは“ロックロックこんにちは! in 仙台”がZEPP SENDAIにて開催されている。
スピッツに影響を受けたアーティストは多く、様々なアーティストからリスペクトされており、楽曲をカバーされることも多い。 また、草野の独自の歌詞表現も評価が高い。
あるインタビューで自分たちのルーツを聞かれた際に、草野はCheap Trickの『In Color』、The Damnedの『Machine Gun Etiquette』、David Bowieの『Ziggy Stardust』、Rideの『Nowhere』、真島昌利の『夏のぬけがら』が好きなアルバムだと語っている。 田村はIron Maidenの『Iron Maiden』、Queenの『A Night At The Opera』、Joni Mitchellの『Shadows And Light』、The Whoの『Live At Leeds』、Rushの『Moving Pictures』を選んでいる。 崎山はMichael Schenker Groupの『Michael Schenker Group』、Motley Crueの『Dr.Feelgood』、LOUDNESSの『The Birthday Eve』、The Bandの『The Band』、The Policeの『Synchronicity』をよく聴いたと述べている。 三輪はDef Leppardの『Pyromania』、『Bagdad Cafe(映画バグダッド・カフェのサウンド・トラック)』、XTCの『Oranges & Lemons』、The Policeの『Synchronicity』、Vandenbergの『Best Of Vandenberg』が原点であるという。
ライブで44MAGNUMの楽曲I'M ON FIREのフレーズをカバーしている。
来歴
バンド結成からインディーズ時代
1986年春、東京造形大学で草野と田村が出会い、重音部に入部。先輩で後のフライングキッズのメンバーの演奏に刺激され、今とはまったくジャンルの違うパンクをやることを決意。ドラムに同サークル部員を迎え、チーターズ(水前寺清子にちなんだネーミング)を結成。オリジナル曲もそこそこに、「365歩のマーチ」をパンク調にしたり、「「いちご白書」をもう一度」をブラック・サバス風にして演奏したりした。途中から草野のギターの負担をカバーするため、ギターを1人加え、バンド名もザ・スピッツに変更される。しかし、後に草野がTHE BLUE HEARTSの「人にやさしく」に打ちのめされ、活動休止となる。
1987年に草野が、東京造形大学から武蔵野美術大学に再入学したことからバンド仲間とは疎遠になり、ザ・スピッツは自然消滅したが、その後も草野と田村の仲は継続した。ある日、草野がライブハウスでやれる本格的なバンド活動の話を持ちかける。田村は、同じく上京していた幼馴染の三輪を誘い、三輪は文化服装学院で同じフォークソング部に所属していた崎山をヘルプで誘う(崎山はドラムスの腕から、既に多くのバンドを掛け持ちしていた)。この4人でスピッツを結成し、7月に文化服装学院の「夏祭り」にて初ライブを行なう。その後、新宿ロフトを目標に、秋から新宿JAM 、渋谷ラ・ママ、下北沢屋根裏などでライブ活動を開始。翌年からはホコ天ライブも行なう。
音楽評論家の富澤一誠は「インディーズ時代のスピッツを形容する表現は〈ビートパンク〉」と述べている。バンドはブルーハーツの影響から抜け出せず、渋谷ラ・ママのブッキングマネージャーから「ブルーハーツの二番煎じでは先は望めない」と指摘される。また、草野もハンドマイクで暴れたり、観客をあおったりするスタイルが自分に似合わないと感じ始めていたこともあり、ドノヴァンを意識してアコースティックギターを持つようになる。この時に「恋のうた」や「ヒバリのこころ」などが作られ、スピッツのスタイルが確立されていく。また、ソノシート『鳥になって/UFOの見える丘』を自主制作し、1988年11月にリリース。新宿、池袋、神戸のインディーズショップでも売られるが、多くは知り合いに手売りとなった。
1989年には新宿ロフトのイベントに出演するようになり、同年7月12日に新宿ロフトにて念願のワンマンライブを敢行、300人を動員する。その後、12月から新宿ロフトでマンスリーライブ「鳥になっちゃう日」を敢行。1990年3月には新宿ロフトのインディーズレーベル・ミストラルより初のCD『ヒバリのこころ』をリリースする。
新宿ロフトに出演するようになった頃、多くのレコード会社からデビューの話が持ち掛けられる。その中には、後にスピッツのディレクターとなる、当時ポリドールの新入社員だった竹内修もいた。しかし、メジャーデビューすることによって自分たちのビジョンが変えられることを恐れていたメンバーは、レコード会社の前に事務所を決めたいと提案し、浜田省吾の事務所として設立されたロードアンドスカイを紹介してもらう。約1年程の交渉の末、1990年夏、事務所ロード&スカイ及びレコード会社ポリドールと契約する。
メジャーデビュー
1991年2月に、「“五千光年の夢”シアターコンサート Vol.1」と題したシアターコンサートを新宿シアターモリエールにて実施。この小劇場でのライブはシリーズ化し、同年9月までに「Vol.4」まで行なわれる。
1991年3月25日、ポリドールよりシングル「ヒバリのこころ」と、1stアルバム『スピッツ』を同時リリース。翌月に大阪のFM局FM802では同アルバムから「ニノウデの世界」がヘビーローテーションに選ばれ、音楽専門誌ROCKIN'ON JAPANでは90年代型ニュー・ウェーブと紹介されカラーで扱われる等、一部の業界からは注目を浴びるも、CDはオリコンチャートには入らず。また、デビュー半年間のライブはシアターコンサート数本と、名古屋市民会館での「NAGOYA Live TV Special」のみとなり、それ以外はアルバム制作のためにスタジオ入りの日々を送る。同年11月には2ndアルバム『名前をつけてやる』をリリースし、初のホールツアー「名前のないツアー」を敢行。
1992年の4月には、前作『名前をつけてやる』収録の「魔女旅に出る」でオーケストラアレンジを担当した長谷川智樹とタッグを組み、全編にわたりオーケストラアレンジを施したミニ・アルバム『オーロラになれなかった人のために』をリリース。また、同日には弦楽奏者との共演ライブ「オーロラになれなかった人のために“蜜柑色の満月のもとで、まぼろしの物語を語ろう 〜一夜限りの絵空事〜”」を東京よみうりホールで実施。同年5月にはオフィシャルファンクラブ「スピッツベルゲン」が発足する。9月には、前作のミニ・アルバムで得たエコー感をバンドサウンドに生かし、ロックテイストに仕上げた3rdアルバム『惑星のかけら』をリリース。しかし、デビュー2年目であるこの時点まで、CDを出す度に売上は下回っていた。
初のヒット
バンドは元々メジャーへの憧れが無かったとはいえ、バンド活動の継続と、自分達のビジョンを守ってくれるスタッフへの恩返しのためにも、売れることを意識し始める。その一端として、1993年4月より、初めて外部プロデューサーとして笹路正徳を迎え、レコーディングを開始。加えて同年3月から8月までの計6回、渋谷ON AIR(現ON AIR EAST)にてマンスリーライブ“スピッツの春夏夜会”を敢行。最終公演はチケットが完売する。しかし、その翌月の9月にリリースした4thアルバム『Crispy!』は結果的に不振となり、草野は自分の作る曲や歌声に自信を無くす事態となる。しかし、リカット・シングル「君が思い出になる前に」が初のオリコンチャート入りを果たし、それまで100人単位でしか増えなかったツアー動員も大幅に増えていった。
1994年の4月と7月には土方隆行をプロデューサーに迎えたシングル「空も飛べるはず」と「青い車」をリリース、スマッシュヒットとなる(この時の「空も飛べるはず」の売上はまだ7万枚程度)。9月には再び笹路正徳をプロデューサーに迎えた5thアルバム『空の飛び方』をリリース、オリコン初登場14位を記録する。なお、この年には「君が思い出になる前に」でミュージックステーション、「青い車」でポップジャム、「スパイダー」でCOUNT DOWN TVに出演するなど、メディア露出も増えていった。
1995年4月にリリースしたシングル「ロビンソン」が初のオリコンチャートTOP10入り、通算30週以上チャートにランクインするというロングセラーとなり、売り上げも162万枚の大ヒットとなる。7月のシングル「涙がキラリ☆」も初登場2位、98万枚のセールスとなり大ヒット。9月には6thアルバム『ハチミツ』をリリースし、アルバム初のオリコン首位、169万枚を売り上げる。10月からは40本を越える初のロングツアー「TONGARI'95-'96」をスタート。
1996年1月にはフジテレビ系ドラマ「白線流し」の主題歌に「空も飛べるはず」が起用されリバイバルヒット、結果的にはシングル初のオリコン首位、148万枚を売り上げる。同年4月のシングル「チェリー」も161万枚の大ヒット。5月には篠崎ストリングスとの共演ライブ「カゲロウの集い」を東京、大阪、名古屋にて敢行。9月のシングル「渚」でシングル初の初登場1位を記録。10月には7thアルバム『インディゴ地平線』をリリース。これが笹路正徳プロデューサーとの最後のアルバムとなる。
デビュー十周年まで
1997年1月にシングル「スカーレット」を発売、前作に続きオリコンチャート1位のヒットとなる。アルバムは発売されなかった。同年7月にはスピッツが主催するイベント“ロックロックこんにちは”をZEPP OSAKAで開催、その後、毎年行なわれるイベントとなる。8月には結成10周年を記念したシークレットライブを新宿ロフトで敢行、アマチュア時代の楽曲を中心に演奏する。
1998年3月には共同アレンジャーに棚谷祐一(当時カーネーション)を迎え、セルフプロデュースとなる8thアルバム『フェイクファー』をリリース。同年5月からスタートした全国ツアー「fake fur」で、キーボーディストのクジヒロコが初参加、これ以降のツアーにおいて欠かせないサポートメンバーとなる。また、ツアー中の8月にはセルフプロデュースで、後に『99ep』(1999年1月1日リリース)に収録される「ハイファイ・ローファイ」「魚」「青春生き残りゲーム」をクジヒロコと共にレコーディング。
1999年3月には、未アルバム化のシングルのカップリング曲を集めたスペシャルアルバム『花鳥風月』をリリース。この時期は新曲のリリース予定は無かったものの、サウンドの追求のため、9月から10月にかけてセルフプロデュースによるレコーディングを行う。また、ミックスダウンをマイアミのエンジニア、トム・ロード=アルジに依頼するため、10月に渡米。ロサンゼルスで初の海外レコーディングも行い、マイアミにてミックスダウン、その後、再びロサンゼルスに戻りマスタリングも行う。この時にマスタリングを担当したスティーヴン・マーカッセンは、一部のシングルを除き、2000年以降のスピッツには欠かせないエンジニアとなった。
しかしその頃、レコード会社がベスト・アルバムの発売を無断で決定し、マイアミでのミックスダウン直後、現地に向かった所属事務所の社長高橋信彦から直接メンバーに伝えられる(この時の出来事は、関係者の間で“マイアミ・ショック”と呼ばれている)。『花鳥風月』リリース時、メンバーは「ベストアルバムを出す時は解散する時」と公表していたため、公式サイトにて詫び状を掲載。メンバーの不本意のまま、12月にベスト・アルバム『RECYCLE Greatest Hits of SPITZ』はリリースされるが、2006年1月に製造中止になるまでの約6年間、何度も再チャート入りするほどのロングセラーとなり、結果として200万枚を超える大ヒットとなる。
2000年には石田小吉(現・石田ショーキチ)をプロデューサーに迎え、本格的なアルバムのレコーディングを開始。7月には9thアルバム『ハヤブサ』をリリース。初めてハードロック志向の同世代プロデューサーとの共同作業となり、ブレイク後の“王道ポップス”イメージを覆したアルバムとなる。このアルバムを引っ提げたツアーは「放浪2000」「隼2001」「純情2001」の三回に分けられ、公演数は計100本を越える。「隼2001」と「純情2001」の合間には、既にツアーで披露していた新曲「さわって・変わって」をプロデューサーに亀田誠治を迎えてレコーディングし、2001年12月にシングルリリース。
2002年以降
2002年3月より、「さわって・変わって」に引き続き亀田誠治をプロデューサーに迎え、本格的なアルバムのレコーディングを開始。9月に10thアルバム『三日月ロック』をリリース。
2003年は新曲のリリースこそなかったものの、この年の秋からフジテレビ「あいのり」の主題歌となった「スターゲイザー」(2004年1月リリース)で久々にシングルでオリコン1位を獲得。2004年3月には、1999年以降のアルバム未収録曲を集めたスペシャルアルバム『色色衣』をリリース。6月からはエンジニアに高山徹を迎え、アルバムのレコーディングを開始。翌年2005年1月には11thアルバム『スーベニア』をリリース。
2006年3月、デビュー15周年を節目にシングルコレクションアルバム『CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection』と『CYCLE HIT 1997-2005 Spitz Complete Single Collection』を同時リリース。この年はレコーディングが中心となり、7月にはシングル「魔法のコトバ」(映画『ハチミツとクローバー』主題歌)のリリースはあったものの、ライブはイベント数本のみとなり、デビュー以来初めて単独公演が行なわれない年となる。また、このベストアルバムの発売により、アルバム総売上枚数が1000万枚を突破した。アルバムの1000万枚突破は、2004/9/13付の槇原敬之以来、1年9ヶ月ぶり。グループでは、2001/4/2付のEvery Little Thing以来、男性グループでは、L'Arc~en~Ciel以来で、ともに5年2ヶ月ぶりの達成となった。
デビュー二十周年
2007年で結成20周年を迎え、8月にZepp Tokyoで2日間に亘り「SPITZ結成20周年祭り」を開催。吉井和哉をゲストとして迎えた。10月には、12thアルバム『さざなみCD』をリリース。同時に、ila×spitz 写真展の"ILASPITZ Photo Exhibition"が開催。11月には、メンバーが書き下ろした書籍「旅の途中」が幻冬舎より出版。
2009年1月、スピッツ初となるワンマン・アリーナ公演を、さいたまスーパーアリーナと大阪城ホールにて開催。同じく11月4日には、さいたまでの公演を収めたライブDVD「JAMBOREE TOUR 2009 ~さざなみOTRカスタム at さいたまスーパーアリーナ~」が発売され、スピッツのライブ映像作品としては6年ぶりの作品となった。
2010年はリリース・ラッシュの年となり、6月23日には36thシングル『つぐみ』、9月29日には37thシングル『シロクマ/ビギナー』を立て続けにリリース、10月27日には約3年ぶりに13thアルバム『とげまる』をリリースした。
2011年3月25日、メジャーデビュー20周年を迎える。当初は、これを記念してPV集『ソラトビデオCOMPLETE 1991-2011』が発売される予定であったが、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で4月に延期となった。4月13日からはツアー「SPITZ JAMBOREE TOUR "とげまる2011"」をスタート。このツアーではボーカル草野の急性ストレス障害、また被災地の甚大な被害により、開催が困難と判断された三郷と郡山の2会場と合わせて開幕当初の計5ヶ所6公演の開催が見送りとなった。7月には、一昨年に引き続き2回目のアリーナ公演「SPITZ JAMBOREE TOUR 2011 "とげまリーナ"」を開催。また12月には、この模様を収録したDVDと、スピッツ初のBlu-ray Disc作品『とげまる20102011』をリリース。
2012年はオリジナルアルバム・シングルの発売こそ無かったものの、2月1日にはスペシャルアルバム『おるたな』をリリース。さらに3月20日からは、約5年ぶりとなるファンクラブ会員限定ツアー「spitzbergen tour 2012 "GO!GO!スカンジナビアvol.5"」をスタートさせ、全国22ヶ所(追加公演含む)のライブハウスにて公演を行った。
2013年5月15日、38thシングル『さらさら/僕はきっと旅に出る』を、9月11日には『とげまる』から約3年ぶりのオリジナルアルバムとなる14thアルバム『小さな生き物』をリリース。さらに9月14日には16年ぶりとなる野外単独ライブ「スピッツ 横浜サンセット2013」を、横浜・赤レンガパーク野外特設会場にて開催した。11月1日からは小さな生き物を引っさげた全国ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR 2013-2014 “小さな生き物”』をスタート。
2014年7月2日よりアリーナツアー『SPITZ THE GREAT JAMBOREE 2014 "FESTIVARENA"』を東京・愛知・大阪・福岡にて開催。東京会場ではワンマン初となる、日本武道館公演を4回にわたり開催した。また、7月10日の武道館公演のMCにおいて、「今日のライブ前に武道館のwikipediaを見たら、『スピッツは武道館での公演を頑なに避けている。』との記述がまだあった(9日に初日を迎えていた。)」と発言した。後に武道館の項目は加筆修正された。
2015年3月21日より、2013年9月14日に横浜・赤レンガパーク野外特設会場にて開催された野外単独ライブ「スピッツ 横浜サンセット2013」の模様を劇場版としてノーカットで期間限定公開。4月15日、配信限定シングル「雪風」を配信開始。7月1日には、ライブビデオ『JAMBOREE 3 “小さな生き物”』(DVDとBlu-rayの2商品)を7月1日(水)に発売することが決定。ホールコンサート1公演だけの映像を商品化するのは、スピッツ史上初。3月27日から、ファンクラブ会員限定ツアー「spitzbergen tour 2015 "GO!GO!スカンジナビアvol.6"」をスタート。また2015年はスピッツとしては初めて、春に開催される音楽フェス(いわゆる春フェス)に出演した。