佐藤 博(さとう ひろし、1947年6月3日 - 2012年10月26日)は、日本のシンガーソングライター、ピアニスト、キーボーディスト、シンセサイザープログラマー、作曲家、編曲家、レコーディング & ミキシング・エンジニア、マスタリングエンジニア、プロデューサー。鹿児島県川辺郡知覧町(現南九州市)生まれ。京都府育ち。
中学時代にギター、その後ベースギターやドラム演奏を習得する。
高校1年生から自宅の蔵にて多重録音を始める。高校2年生の時に、SONYのオープン・リールの4トラック・レコーダーを入手する。
元々(ギタリストやピアニストということではなく)作曲家、編曲家志向であったが、そのためには鍵盤のほうが有利だと東京ユニオンの藤尾正重(p)のアドバイスがあり、20歳より独習でピアノを始める。後に「20歳当時、もしもプロになれなければこの世とおさらばしてもいいと思えるくらい練習した」と語っている。
1970年頃より、大阪にてジャズコンボ系のバンドのピアニストとしてプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する。
1972年頃より、京都にて、ウエストロード・ブルーズバンドや上田正樹といったブルース系のミュージシャンや、オリジナル・ザ・ディラン、大塚まさじ、加川良といったフォーク系のミュージシャンの演奏に参加する。
1974年頃、石田長生とバンド“THIS”を結成する。
加川良のアルバム『アウト・オブ・マインド』のバッキングで鈴木茂と知り合い、上京(詳細はハックルバックを参照)。
1976年より、ハックルバック結成〜ティン・パン・アレーへの参加といった活動と並行して、ソロ・アルバムを発表する。
エルヴィス・プレスリーやレイ・チャールズ、ビートルズに影響され音楽を始めたものの、ブルースをルーツとしている度合が大きいのが特徴である。
ピアニストとしての佐藤博の顕著な演奏は、初期の山下達郎作品や大滝詠一の『ナイアガラ・ムーン』、細野晴臣の『トロピカル・ダンディー』、『泰安洋行』、『はらいそ』といったトロピカル三部作、吉田美奈子の初期作品等で聴く事ができるが、キーボード奏者ではあるものの、ピアニストとしても評価が高い(その参加作品は、その他参加作品に後述)。
「サーティーンスやシックス・ナインスといった、ジャズによく使われるコードを用いた都会的な部分が彼の(ピアノの)個性」– 細野晴臣
「ラグタイム(ピアノ)ならば日本一」– 大滝詠一
「日本最高のピアニスト」– 山下達郎
「ハチロク(6/8拍子)バラードのような曲は佐藤博さんのピアノなしには出来ません」– 山下達郎
「間奏の終わりのクレッシェンドではピアノがローリングして大きく揺れていました。驚くべき表現力です」– 山下達郎
「氏のピアノは日本の宝物のような気がします」– 角松敏生
「白玉の響きが美しいピアノ」– 村上秀一
「黒いピアノを弾く」– 大儀見元
細野晴臣よりイエロー・マジック・オーケストラ (YMO) への参加を呼びかけられるも、1979年に渡米する。
アメリカでは、マリア・マルダーやランディ・クロフォードらと活動し、滞在中にアルファレコードと契約。1982年に4thソロアルバム『awakening』のデモテープを携え帰国し、4thソロアルバム『awakening』を発表する。
帰国後の1980年代以降は、CM音楽やテレビ番組のテーマ曲を多数発表しており、ベスト・アルバム『記憶の中の未来(1988年12月)』には、それらの提供曲が多数収録されたため、TVグラフィティというサブ・タイトルが付いているほどである。
国内に拠点を移した後、1970年代後半から取り組んでいたシンセサイザーや打ち込みを基調にした、ブラック・ミュージック/ジャズ/フュージョン色のあるポップスを追求している。
音楽制作の特徴は、一人多重録音というスタイルが基本である。
国内では、いち早くシンセサイザーやシーケンサー、パーソナルコンピュータといった最新の機器を表現の道具として駆使したミュージシャンとして知られているが、特筆すべきはシンセサイザー、多重録音、音響エフェクトに関しても、執筆原稿が1983年7月20日発行の『KEYBOARD BOOK(新譜ジャーナル別冊)』や雑誌『キープル』にて展開されたように、これら分野の国内における先駆者的存在である。
MIDI規格に関しても、その導入からアドバイザー的立場として関わっている。
なかでも特筆すべき点は、「コンピューター」を自分がイメージしたサウンドを具現化するための「道具」として捉えている事であり、機械の制約に合わせて作るのではなく、まずこういうものが作りたいというのが優先であると語っている。
また、リズム・トラックの制作においても、一人多重録音の成果はリズム・プログラミングという形として特に顕著に現れており、生涯を通じてオリジナル作品へのドラマーの参加は、1990年2月発表の『Good Morning』(ドラムはJOHN“JR”ROBINSON)が最後である。
リズム・プログラミング。なかでもハイハットシンバルのアーティキュレーションの凝った付け方には定評がある。
村上秀一は、『YOU'RE MY BABY』(『awakening』に収録)のドラムが彼が打ちこみで作ったものであると知って衝撃を受けており、「こんな人間くさい打ちこみ作れる奴はいない!」と評価している。
同様にゴンザレス三上は「磨かれた玉のようなコンピューターシークエンス。素粒子レベルまで到達しているリズムへのこだわり」と形容している。
また中村正人においては「名ピアニスト」+「打ち込み・ジェダイ・マスター」=「無敵」と評価している。
レコーディング・エンジニアリングとしては、デジタル録音における音響のスタンダードを確立するため、その初期からレコーディングに際して、自らミキシング・コンソールを駆使しているのも大きな特徴である。例えば、アルバム『AQUA』(1988年6月1日)では、シンセ・パートなどの演奏は音質が劣化せぬようテープには録音せず、ミックス・ダウンの際に、マッキントッシュ+1985年に発売されたMIDIシーケンサー・ソフトのPerformer(パフォーマー)を使用して同期演奏させるなど、一種のデジタルMTR的使用をしている。
また、ミキシング・コンソールを操作することは、楽器を演奏することと同じだと解釈している。
特にミックス・ダウンに関しては、思い入れが深く、演奏やうたうこと以上に一番好きであるとまで語っている。
ミックス・ダウンの時には、エンジニア的要素よりもコンダクター的要素の方が重要であり、そういう意味でもトータル的にその音楽に責任を持つ人がエンジニアリングまでやる方が一番良いと語っている。その為、作品には「機械任せ」や「他人任せ」といった、「おまかせ」の要素が一切ない。
エンジニアリング関係まで自分で関わる理由として、佐藤博本人は、結局は自分のイメージしている音に近づける為であると語っている。
中でも1990年に建設された、プライベートスタジオ“Studio SARA”ではトラック・ダウンからマスタリングまで行えることは特筆すべき点である。
近年はプロデュース活動および新人アーティストの発掘に注力しており、その代表作としては2007年のDREAMS COME TRUE『史上最強の移動遊園地 DREAMS COME TRUE WONDERLAND 2007』の音楽監督や、同じく2007年のSoulJa『DOGG POUND」、2008年の青山テルマ『そばにいるね』のサウンド・プロデュース、2011年2月発売のふくい舞「いくたびの櫻」が挙げられる。
ちなみに2008年に大ヒットした青山テルマの『そばにいるね』では、編曲とサウンド・プロデュースのみならず、自身のプライベート・スタジオである“Studio SARA”にて自ら録音、ミックスダウン、エンジニアリングとマスタリングまでを手掛けた。また、キーボード、リズム・プログラミング、シンセ・ベースの演奏まで行い、『第50回 輝く!日本レコード大賞』【優秀作品賞】を受賞する。
また2011年2月発売の作曲、編曲およびサウンドプロデュース(演奏、ミックス、エンジニアリング共)を手がけたふくい舞の『いくたびの櫻』が第44回日本有線大賞を受賞した。