小档案
新田 恵利(にった えり、1968年3月17日 - )は、1985年におニャン子クラブの会員番号4番としてデビューした日本の女性タレント。オフィスウォーカー所属。ソロデビューした時に歌った『冬のオペラグラス』がヒットした。
上福岡市立第一中学校(現・ふじみ野市立福岡中学校)埼玉県立福岡高等学校卒業。
大事件
1985年4月、おニャン子クラブ会員番号4番としてフジテレビ『夕やけニャンニャン』に出演。すぐに自分は芸能界に向いていないと思い番組スタッフに辞めたいと申し出るが、「週刊文春喫煙事件」で5人のメンバーが脱退した為に出演を継続する(この時点で会員番号のトップになる)ことになる。
7月、おニャン子クラブのデビュー曲『セーラー服を脱がさないで』でフロントメンバーに選ばれ、以降おニャン子クラブの「顔」として人気を博す。高校卒業後(当時は高校三年生)もタレント活動を続けて行きたいとスタッフに意向を伝え、芸能事務所「ボンド企画」に所属。
1986年1月1日、シングル『冬のオペラグラス』でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録する(当時は公式に女性初のデビュー曲オリコン初登場1位と発表されたが、その後オリコンの規定が変更されグループからのソロの場合はデビュー曲と見做さないことになったため、現在のオリコンの公式記録では女性初のデビュー曲オリコン初登場1位は内田有紀となっている)。「100万ドルの笑顔」と称され、シングルのジャケットをあしらったノベルティ「新田トランプ」は破格の値段で取引された。以降も定期的にシングル、アルバムを発売する。
ソロデビュー直前の1985年12月24日、父親が急逝している。そのため年内は「夕ニャン」を欠席した。ビデオ『臨海学校』の撮影には参加したが、撮影先のハワイで高熱で倒れ(肺炎寸前だった)入院した。
1987年におニャン子クラブが解散した次の年以降、人気が下火になる中、アルバム内で「絵梨」というペンネームで作詞をしていたこともあり、1990年3月に「作詞家になりたい」と芸能界を引退(ただし、休業中及び復帰後も作詞家としての活動は一切していない)。ラストシングル(本人作詞)、ラストアルバムの発売、ラストコンサート(ビデオ化されている)、テレビ出演などさまざまな形でスタッフやファンに見送られる。
1994年に写真集とエッセイで芸能活動を再開。
1996年(平成8年)8月8日、『フジテレビの日』(8が3つ揃った日でお台場へフジテレビが移転する直前)に一日だけ『復活夕やけニャンニャン』として番組が復活し、そのイベント担当だったフジテレビ社員と後に結婚。2002年にはおニャン子クラブが一時的に再結成し、初期メンバーを中心に新曲『ショーミキゲン』をリリースしている。また、同年12月5日放送の『2002FNS歌謡祭』では『ショーミキゲン』『セーラー服を脱がさないで』を後期メンバーを含み熱唱している。
ナインティナインの岡村隆史が新田の熱烈なファンだったことから、『とぶくすり』に「歌のお姉さん」として(事前に岡村に知らせず)出演した。また、後の『めちゃイケ』でセイン・カミュやあさりどなど、かつて新田ファンだったタレントと共に新田の自宅を訪ねる企画が放送され、当時(1999年)の同番組の最高視聴率を樹立した。
その後は女優、作家・エッセイストとして文筆活動を行っているほか、東京のコミュニティFM局「Ginza'RADIOCITY」のパーソナリティーもしている。
2002年、期間限定で復活したおニャン子クラブに参加。この頃から布川敏和、堀ちえみなどのように「当時の裏話を語る80年代アイドル」としてテレビ出演する機会も増える。一度引退したことについて「作詞家になりたかったというのは本当だけど、ただ単に遊びたかったという気持ちもあったし、(当時交際していた男性と)結婚したかったという気持ちもあった」と発言している。
2007年、福岡県嘉麻市にたけし軍団の井手らっきょが中心となって発足した誕生した硬式野球クラブ「嘉麻市バーニングヒーローズ」の応援団を務める。