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风格
#日本摇滚
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

yukihiro(ユキヒロ、1968年11月24日 - )は、日本のミュージシャン、ドラマー。千葉県市川市出身。L'Arc〜en〜Cielのドラマー、P'UNK〜EN〜CIELのベーシスト、acid androidのヴォーカリスト、フロントギターとして活動している。また、元Zi:Kill、DIE IN CRIESのドラマー。L'Arc〜en〜Ciel加入以前は表記がYUKIHIROだった。愛称は「ユッキー」。身長165cm、体重48kg。血液型はA型。

小简介

ラルク以前の呼び名は「先生」だった。これは学生時代に英語と数学の家庭教師をしていたことからである。また、ラルク以降も時々、特にacid androidとして活動する際には 「先生」と呼ばれているが、概ね「ユッキー」の愛称が定着している。(先に「ユッキー」と呼び出したのはhyde)。元々バンドマンとして先輩だった為加入当初kenやtetsuyaはどう呼んでいいかわからず呼ばなかったらしいが、hydeがふいにユッキーと呼んだため定着した。

ダイイン時代、ラルクでの楽曲やソロ活動から見られるように、主に打ち込み系の音楽(クラブミュージック、テクノ、ハウス、インダストリアルなど)を好んで手がける。ドラムのプレイがタイトなのも同期させた際にズレや音の響きの違いを軽減させるために考慮されていると思われる。また、UKロックなどイギリスの音楽に精通しており、特にライヴ会場で購入したポスターを額縁に入れて飾っているほどレディオヘッドを尊敬している。他にもミニストリー、デフトーンズ、スリップノット、トゥール、スキニー・パピー、デペッシュ・モード、マッシヴ・アタック、バウハウス、メタリカなどを好きなアーティストとして挙げている。日本のバンドではSOFT BALLET、BUCK-TICKから影響を受け、他にはASIAN KUNG-FU GENERATIONのファンでもある。

ラルク以前はバンドマンたるものかくあるべし、というポリシーを断固として守っていた。例えば「半そでは着ない。」「ハワイには行かない。」など。音楽以外に割く時間はないと、自動車の免許も持っていなかった。ラルクに加入し、自然体のメンバーに大きな影響を受けた後は、ハワイも行き、半袖を着用するように。1999年にはリーダーであるtetsuyaに「車の免許も取ったほうが良い」と言われ取得したことを、FMラジオで公言した。

初めてラルクのレコーディングに参加したとき、hydeが水着を着ていてびっくりしたという(yukihiro本人は水着と発覚するまで「ピチッとした半ズボン」だと思っていた)。また、hydeの初期の容貌から「綺麗な人」というイメージを持っていたため、いざhydeが登場したときにヒゲが生えていたことにもびっくりしたと語っている(『音楽戦士 MUSIC FIGHTER』 2007年11月7日放送分より本人談)。

コーラ、チョコレート、ジンジャエール、マクドナルドが好きで強いこだわりがある。マクドナルドではフィレオフィッシュが好物で海外へ行った時も食べる。

テレビ出演時はほかのメンバーに比べ口数は少なめであるが逆に無口な為いじられる事も多い。

角フェチである(正確には「直角フェチ」)。本人曰くきっちりしているのがいいらしく、テーブルも丸いテーブルは嫌いとの事。

喫煙者ではあるが酒は全くといっていいほど飲めない。大学時代に先輩にしつこく酒を勧められキレた事がある。

食が細くライブの打ち上げなどで食事に出かけてもあまり食べない為それを心配したメンバーが一つにまとめたセット(ユッキーセット)を注文し食べさせる。

大事件

yukihiroがドラムを始めたのは高校入学の時だった。入学祝いを貰い、それでギターを買おうと楽器店へ向かったが気に入るものが見つからず、ギターと同じフロアに置いてあったドラムセットに一目惚れした。タムやシンバルがきっちりと組み込まれているのを気に入ったとされる。「跳ね返りが悪くなる」という理由で防音マットも敷かずフルセットで叩き、近所から苦情が来たため、市役所の訪問を受けた事がある。結局、叩く時間を決めることで、事態は収拾された。そして高校入学後から髪を伸ばしはじめ、バンド活動を始めた。

しかし、バンド活動に傾倒し次第に学校へ行く意味を見失い、高校を退学しようと親に相談したところかなり怒られた為、高校を無事に卒業後、大学へ進学。 大学在学中、東京ヤンキースを結成する前のUME、NORIとGUERRILLAを結成。目黒鹿鳴館でそのバンドのライブを見ていたZI:KILLのKENがyukihiroを誘い、そのままZI:KILLに加入(89/06/11)。2枚のアルバムに参加したが、そのレコーディング終了後に脱退してしまう。わずか加入1年半での脱退(90/12/28)。理由は海外でレコーディング中ヴォーカルのTUSKが「こいつが居るなら俺が辞める」と言い出し、途中参加だったyukihiroが抜ける事となった。yukihiro曰く、音楽的に極端なものを目指す自分と普遍的なものを目指す他メンバーとの間に距離やズレが生じていたとのことである。また、この頃のyukihiroは自己主張が強く妥協を許さなかったことも不仲の原因の一つであったと言える。脱退した途端にレコード会社の人間に見放されたため、初めて訪れた海外で放り出される結果となった。(音楽と人2006年6月号参照)

そしてロンドンにいたyukihiroはKYOとバンドを組みたいと思ったため「ZI:KILLをやめるからバンドをやらないか?」と現地から電話をした。その後THE MAD CAPSULE MARKET'Sを脱退した室姫深に誘われたが、結局は室姫深が引き込まれる形になる。

まずはKYOがDIE IN CRIESと名乗りつつもソロとして「NOTHINGNESS TO REVOLUTION」を発表。yukihiroと室姫深はユニットOPTIC NERVEを組み、CDを発売。OPTIC NERVEは既にNOTHINGNESS TO REVOLUTIONに参加していたため、二人を入れてバンドとして活動することが決定。そこにTAKASHIを加え、メジャーデビューを果たす。なお、このときの事務所がデンジャークルーだった事から、後にL'Arc〜en〜Cielに誘われるきっかけとなった。

1995年のDIE IN CRIES解散後はソロ活動と共に飯島直子のサポートドラマーとして活動をする。また、THE MAD CAPSULE MARKET'Sのリミックスに参加している。この時期、「ドラム以外の仕事をほとんどしなかったので財産は尽きかけ住む家もなくなり、他人の家に居候する生活が一年ほど続いた」と本人は音楽と人2006年6月号で語っている

1997年に前ドラムのsakuraの脱退を受け、L'Arc〜en〜Cielにサポートドラマーとして参加、1998年1月1日付けで正式加入する。

ドラムセットの前にマイクを置いていたsakuraとは対照的に、加入当初は歌うことは殆ど無かったが、2003年の「Shibuya Seven days」ライヴ中、自作曲「trick」をhyde、tetsuya、kenらとギターで演奏しながら共に歌う。そして後のacid androidでは本格的にヴォーカルをとっている。

ドラムだけでなくギターやプログラミング、P'UNK〜EN〜CIELではベースを担当。 他にも、2001年5月23日shibuya club asiaにてイベント「acid android in an alcove」を行ない、DJとしてステージに立った。『ark』収録の「Cradle」ではターンテーブルを、最近では『AWAKE』収録の「AS ONE」でスクラッチなどにて、その一部が垣間みられる。

L'Arc〜en〜Ciel内で作詞・作曲を手掛けた物は少ないものの、『ray』収録の「trick」やyukihiroが作詞した、「New World」はhyde以外のメンバーが作詞を手掛けた初のシングル作品であり、yukihiro初の日本語詞でもある。『KISS』に収録されている「spiral」では作詞・作曲を手掛けている。

元SOFT BALLETの藤井麻輝が手がける睡蓮の楽曲「左手」のドラムのレコーディングに参加した。


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