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风格
#日本摇滚
地区
Japan 日本

艺人介绍

上原大史(ボーカル)

柴崎浩(ギター)

木村真也(キーボード)

旧メンバー:

上杉昇(ボーカル)

大島康祐(キーボード)

和久二郎(ボーカル)

杉元一生(ギター)

成员档案

一期1991年-1992年 上杉昇、柴崎浩、大島康祐

二期1992年-1996年 上杉昇、柴崎浩、木村真也

三期1997年-2000年 和久二郎、杉元一生、木村真也

四期2018年-2019年 上原大史、柴崎浩、大島康祐

五期2019年- 上原大史、柴崎浩、木村真也、大島康祐(制作)

姓 名 上原大史(うえはら だいし)

出生日期 8月20日

出 生 地 不明

血 型 O型

担 当 主唱、作词

姓 名 柴崎浩(しばさき ひろし)

出生日期 1969年12月13日

出 生 地 东京都

血 型 A型

担 当 吉他、作曲、编曲

中 文 名 大島康祐

日 文 名 大島こうすけ(おおしま こうすけ)

出生日期 1970年9月4日

出 生 地 日本福冈县

担 当 键盘、作曲、编曲

姓 名 木村真也(きむら しんや)

出生日期 1969年7月28日

出 生 地 青森县五所川原市

血 型 A型

担 当 键盘、作曲、编曲

姓 名 上杉昇(うえすぎ しょう Show Wesugi)

出生日期 1972年5月24日

出 生 地 神奈川县横须贺市

血 型 A型

身 高 172cm

担 当 主唱、作词、作曲、编曲

姓 名 和久二郎(JIRO WAKU)

出 生 名 松元 治郎(まつもと じろう)

出生日期 1970年12月11日

出 生 地 东京都

担 当 主唱、作词、作曲

姓 名 杉元一生(すぎもと いっせい)

出 生 名 安保一生(あんぼ いっせい)

出生日期 1972年5月8日

出 生 地 日本富山县

担 当 吉他、作词、作曲、编曲

乐队简介

WANDS,日本摇滚乐队,由主音上杉升、吉他手柴崎浩和键盘手大岛康佑成立于1991年,所属唱片公司Being。

1991年12月,发售首张单曲《寂しさは秋の色》正式出道。1992年,大岛康佑退出,木村真也加入,由此进入第二代。同年10月,与中山美穗合作的单曲《世界上没有谁比我还爱你》发布,该单曲共售出180万。1993年,乐队发售了4张单曲,其中有2张突破了百万销量。同年发售的专辑《时之扉》成为乐队销量最高的专辑。1994年,发布单曲《直到世界终结》,成为乐队第4张百万单曲。1995年,发售单曲《Secret Night ~It's My Treat~》,乐队风格发生转变,作品销量也开始逐步下跌。1997年,上杉升、柴崎浩退出乐队,主唱和久二郎和吉他手杉元一生加入,乐队由此进入第三代[3] 。之后,乐队共发售了4张单曲。2000年6月,在发售精选集《BEST OF WANDS HISTORY》后,乐队正式解散。

1991年9月,大岛康佑作为LOUDNESS的音乐支持者进行活动,后由BEING系老板长户大幸组织,大岛康佑作为键盘手与BEING音乐振兴会的学生上杉升、BAD选秀出身的柴崎浩组成摇滚乐队。长户大幸担任乐队的监制,将乐队的名字取为WANDS。

演艺经历

第一代(1991年-1992年)

1991年12月4日,乐队发售首张单曲《寂しさは秋の色》正式出道,由栗林诚一郎作曲,在公信榜单曲榜上取得63位的排名。

1992年5月13日,发售第二张单曲《ふりむいて抱きしめて》。6月17日,发售首张专辑《WANDS》,专辑中基本奠定了乐队的风格。7月1日,发售第三张单曲《もっと强く抱きしめたなら》,初登场47位。在公信榜年度单曲榜上,此单曲以一年中34.7万的销量排在59位,为乐队首次有单曲进入年榜。在此单曲发行后,大岛康佑因为加入了SO-Fi而退出。

第二代(1992年-1996年)

1992年9月,吉他手柴崎浩的朋友木村真也作为键盘手取代了大岛加入了WANDS,就此乐队进入第二代。10月28日,与中山美穗合作发行单曲《世界中の谁よりきっと》,单曲榜初登场2位。11月底,该单曲以50.7万的销量排在年榜37位。12月28日,《世界中の谁よりきっと》登上单曲榜冠军,并在当周突破百万销量。

1993年1月,由于在红白歌会上的演出,《世界中の谁よりきっと》继续获得了三周冠军,最终销量突破180万。同时,由于《世界中の谁よりきっと》取得的关注度,《もっと强く抱きしめたなら》于上榜第29周登上单曲榜冠军,并连续两周冠军,成为乐队第一首百万单曲。2月26日,发行单曲《时の扉》,首周凭借22.2万的销量登上冠军。4月17日,正式发行第二张专辑《时の扉》。同日,还发行了第五张单曲《爱を语るより口づけをかわそう》。4月26日,在当周的公信榜上,专辑《时の扉》和单曲《爱を语るより口づけをかわそう》分别以41万和26万的销量同时登上专辑、单曲榜冠军。之后这两张作品亦继续夺冠3周,《时の扉》亦在上榜第4周突破百万销量,为乐队首张百万专辑。7月7日,发行单曲《恋せよ乙女》,标志着乐队风格的完全定型,在单曲榜上连续2周冠军。10月6日,发行第三张专辑《Little Bit...》。11月,在公信榜年榜上,WANDS有三张单曲突破百万销量,《时の扉》以160.9万登上专辑年榜2位。12月8日,在涩谷ON AIR举行乐队的首次演唱会。

1994年3月,在第8届日本金唱片大奖上,凭借前一年720万的作品总销量获得年度最佳艺人奖,同时亦以《世界中の谁よりきっと》、《时の扉》获得年度5大单曲、年度最佳专辑(男性部门)奖。4月,在涩谷ON AIR举行首次正式演唱会“LIVE-JUNK#0”。6月8日,发行单曲《世界が终わるまでは…》,作为《灌篮高手》的第二首片尾曲,首周售出28.1万,为乐队的第五首冠军单曲,并最终售出122.1万张。从此,乐队风格开始转向更重的摇滚。6月22日-24日,在涩谷公会堂和中野sun plaza举行首次大堂演唱会“LIVE-JUNK 1st KEEP MY ROCK'N ROAD”。

1995年2月13日,发行单曲《Secret Night ~It's My Treat~》,风格转向Grunge,首周售出29.3万,刷新了乐队单曲的首周销售纪录。4月24日,发行第四张专辑《PIECE OF MY SOUL》,首周售出54万,刷新了乐队专辑的首周销售纪录。同一时期,乐队开始了首次全国巡回演唱会“LIVE-JUNK #2 PIECE OF MY SOUL”。乐队的风格也就此开始向另类摇滚发展。12月4日,发行单曲《Same Side》,首周仅售出12.4万,较上张单曲大幅下跌。

1996年2月16日,发行单曲《WORST CRIME ~About a rock star who was a swindler~》,乐队的风格走向成熟,但首周销量下滑至8.2万。3月16日,发行精选碟《SINGLES COLLECTION+6》,首周获得专辑榜冠军。

第三代(1997年-2000年)

1997年年初,由于销量的逐步大幅下跌,Being公司高层开始对Wands的发展进行干涉。在此情况下,以音乐风格不同为理由,主音上杉升和吉他手柴崎浩退出乐队。独自一人的木村真也并没有解散乐队,决意要继续进行活动,正在这时,他遇到了正在各自活动的主音和久二郎和吉他手杉元一生,并重新组成WANDS,就此乐队进入第三代。9月3日,发布单曲《锖びついたマシンガンで今を撃ち抜こう》,发售时搭配《龙珠GT》进行宣传,作词、作曲由小松未步完成,首周登上单曲榜4位。11月6日,在违背上杉升和柴崎浩意愿的情况下,BEING公司以乐队名义发布精选集《WANDS BEST~HISTORICAL BEST ALBUM~》。

1998年2月11日,发布单曲《Brand New Love》,由坂井泉水作词,但是销量仍继续下滑,并因此未能进入单曲榜前十。6月10日,发布单曲《明日もし君が壊れても》,继续由坂井泉水作词,作曲则由大野爱果完成,为这位作曲家的首次作曲,首周再度进入单曲榜前十。

1999年3月31日,发布单曲《「今日、ナニカノハズミデ生きている」》,销量继续下跌,跌出了榜单前二十位。10月27日,发行专辑《AWAKE》,为乐队首张未取得榜单前十位的专辑。

2000年6月,发布最后的专辑《BEST OF WANDS HISTORY》及记录WANDS历史轨迹的映像作品《BEST OF WANDS VIDEO HISTORY》,之后乐队正式解散。

2018年开始第4期WANDS开始筹备,大岛康佑、柴崎浩、上原大史3人体制进行歌曲的制作。2019年11月13日,第三代主唱上原大史正式加入,大岛康佑专于制作,木村真也作为键盘手再加入。

バンド紹介

WANDS(ワンズ)は、日本のロックバンド。90年代にビーイングの核となっていたバンド。 1991年にシングル「寂しさは秋の色」でデビュー。2度のメンバーチェンジを経て、2000年に解散(「解体」と表現)した。

プロデューサーである長戸の意向で、タロットカードの魔法の杖(WAND)の複数形であるWANDSをバンド名にした為、メンバーは命名に関わってはいない。オフィシャルサイトの大島康祐によると、WANDSの名は、タロットカードの用語であるワンド(wand/wands:「理想」「情熱に向かって進む」という意味を持つ)から取って名づけられたものである。大島が述べた事と同じ内容を第3期時に木村もファンクラブ会報で述べている。

上記とは別の説で一般的に知られるものとして、上杉(Uesugi→Wesugi)と柴崎(Shibasaki)の頭文字をとって“Wesugi AND Shibasaki”を意味するというものもある。上杉はインターネットラジオ[6]において、一期での上杉の苗字のスペルが『Uesugi』になっていたが、「ゴロ合わせが好きなプロデューサーだったので、UじゃなくてWの方が見てくれもかっこいい、ということから始まった」と発言している。また、この時「実はWesugi AND Shibasakiじゃなくて“Wesugi AND Show”なんですよ」という発言もしている。また、WANDS第二期の人気絶頂時に、TBS『突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100』に上杉が生出演しているが、司会の山田邦子からWANDSの命名の由来を話題に挙げられ、その際は、上杉(Wesugi)と柴崎(Shibasaki)説を説明している。なお、第3期メンバーである和久(Waku)と杉元(Sugimoto)も、芸名の頭文字がWとSとなるように意図的に命名されている。

芸能経歴

1991年夏頃、ビーイングの音楽プロデューサー長戸大幸を介し、ビーイングが主催している音楽振興会在籍の上杉と、BADオーディションで最終選考に残っていた柴崎により、二人組ユニットとして結成された。そこに大島を加え、同年12月にシングル「寂しさは秋の色」でデビュー。

1992年7月、3枚目のシングル「もっと強く抱きしめたなら」を発表。この作品を最後に、大島が自身のユニットSO-FIを結成するために脱退。後任として、柴崎のYAMAHA音楽院時代の知人であった木村が加入した。10月、中山美穂とのコラボレーション作品として、中山美穂 & WANDS名義で発表したシングル「世界中の誰よりきっと」がミリオンセラーの大ヒットを記録。「もっと強く抱きしめたなら」も、オリコンチャート登場29週目にして1位となりミリオンセラーを記録する。

1993年2月、4枚目のシングル「時の扉」を発表。4月にはシングルと同タイトルの2枚目のアルバム『時の扉』を発表。いずれもオリコンチャート1位、ミリオンセラー記録の大ヒットとなり、日本の音楽界においてトップアーティストとしての地位を確立する。1993年度は、シングル4,112,008枚・アルバム3,187,564枚の売り上げを記録し、第8回日本ゴールドディスク大賞を受賞した。以降1995年まで、シングル「愛を語るより口づけを交わそう」「世界が終るまでは…」、アルバム『Little Bit…』『PIECE OF MY SOUL』が、それぞれミリオンセラーを記録。シングル「恋せよ乙女」「Secret Night 〜It's My Treat〜」もオリコンチャート1位獲得のヒットとなった。

1995年12月、10枚目のシングル「Same Side」を発表。セカンドシングル以来のメンバーのみの手によるシングル曲で、上杉が志向する欧米的な流れであるニルヴァーナオルタナティブのサウンドを如実に示すものであったが、当時の日本での売れ筋J-POP路線とは一線を画していたため前作から売上を落とす結果となった。現在ファンの間では再評価され、上杉自身も「この曲が今の自分の音楽の原点となった。」と発言している。

1996年2月、11枚目のシングル「WORST CRIME 〜About a rock star who was a swindler〜/Blind To My Heart」を発表後、長戸大幸が求めるWANDSのスタイルと音楽性の違いを理由に 1997年初頭に上杉昇と柴崎浩が脱退(後に2人はal.ni.coを結成)し、活動を休止。ビーイングが「WANDS」の名前を商標登録していた為、残った木村真也はボーカルに和久二郎、ギターに杉元一生を迎え、第3期WANDSとして活動を再開する。

1997年9月、当時デビュー直後であった小松未歩の楽曲提供により、12枚目のシングル「錆び付いたマシンガンで今を撃ち抜こう」を発表。その後も坂井泉水やGARNET CROWとしてのデビュー前のAZUKI七からの楽曲提供を受け、シングル4枚、オリジナルアルバム1枚を発表したが、2000年3月、公式サイト上で「解体」(解散)を表明。

解体後のメンバーの共演

2006年のT.M.Revolutionのアルバム「UNDER:COVER」に柴崎と大島がレコーディング参加。以前からT.M.Revolutionのライブにサポートメンバーとして参加していた柴崎の仲介で大島を起用できたと西川貴教がインタビューで語っている。2011年4月2日に行われた西川主催のチャリティーライブ「STAND UP! JAPAN 中央共同募金会」では前述のアルバムで大島が編曲とキーボード、柴崎がギターを手掛けた「HEART OF SWORD 〜夜明け前〜」を大島、柴崎を含むメンバーでライブ演奏している。2人のライブでの共演はWANDS時代を含め初めてであった。イベント終了後、2人が「WANDSとしてサインした」という大島がWANDS時代に使用していたシンセサイザー、YAMAHA DX7II-FDがチャリティーオークションに出品された。

2011年3月28日、杉元(現・安保)が出演したライブに、和久が、本名:"松元治郎"名義でゲストボーカルとして参加。尾崎豊の「僕が僕であるために」を歌唱している。2人のライブでの共演はWANDS時代を含め初めてであった。その後、2012年に松元は安保の支援を受けて音楽活動を再開。同年10月にリリースされた松元の初ソロアルバム『Reverb』は、安保がプロデューサーを務めており、収録曲『Journey』は、作詞:松元治郎・作曲:木村真也・編曲:安保一生と、第三期メンバーの並びとなった。2012年12月2日に開催された初ワンマンライブ「松元治郎 1st LIVE」で、松元と安保が再び共演した。

2019年11月13日、新ボーカリスト上原大史を3代目ボーカルに迎え第5期として活動を再開することを発表した。プロデューサーの長戸は2018年からWANDSの再始動に向けて動いており、大島康祐、柴崎浩、上原大史の3人体制を第4期とし、楽曲の制作を行なっていた。その後大島は制作に専念し、木村がメンバーに加わることが決定。上原、柴崎、木村の3人で第5期の活動となった。11月17日に行われるフリーライブ『DFT presents 音都 ONTO vol.6 @堂島リバーフォーラム』の模様をYouTube Liveで生配信、2020年1月29日にニューシングル「真っ赤なLip」を発売することが併せて発表された。


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