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风格
#日本流行 #都市流行
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

中 文 名:安全地带

外 文 名:安全地带

国    籍:日本

民    族:大和民族

出 生 地:日本

职    业:乐队,组合

代表作品:《コンプリートベスト》、《ゴールデン☆ベスト》

简介

安全地带是由玉置浩二,矢萩渉,武沢豊,六土开正,田中裕二五位日本人所组成的一批乐队。是一批有朝气的乐队。

成员

玉置浩二(たまき こうじ、1958年9月13日-) - 主唱、吉他

矢萩渉(やはぎ わたる、1957年6月27日-) - 吉他

武沢豊(たけざわ ゆたか、「佑昴」とも。1958年5月16日-) - 吉他

六土开正(ろくど はるよし、1955年10月1日-) - 贝斯、钢琴、键盘

田中裕二(たなか ゆうじ、1957年5月29日-) - 鼓

作品

1982年02月25日 萠黄色のスナップ /一度だけ

1982年10月25日 オン・マイ・ウェイ /FIRST LOVE TWICE

1983年04月01日 ラスベガス・タイフーン /エイジ

1983年11月25日 ワインレッドの心 /We're alive

1984年04月16日 真夜中すぎの恋 /…ふたり…

1984年07月25日 マスカレード (シングル・バージョン)/置き手紙

1984年10月25日 恋の予感 /Happiness

1985年01月25日 熱視線 /一秒一夜

1985年06月25日 悲しみにさよなら /ノーコメント

1985年10月01日 碧い瞳のエリス /彼女は何かを知っている

1986年07月01日 プルシアンブルーの肖像 /チャイナドレスでおいで

1986年09月25日 夏の終りのハーモニー /俺はシャウト!※井上陽水・安全地帯名義

1986年10月21日 Friend /恋はDANCEではじめよう

1986年12月03日 好きさ /思い出につつまれて

1987年04月21日 じれったい /ひとりぼっちの虹

1987年12月02日 Juliet /きっかけのWink

1988年03月10日 月に濡れたふたり /時計

1988年06月21日 I Love Youからはじめよう /Too Late Too Late

1988年08月25日 微笑みに乾杯 /ナンセンスだらけ

1990年11月07日 情熱 /Seaside Go Go

1991年11月06日 いつも君のそばに /俺はどこか狂っているのかもしれない

1992年12月02日 あの頃へ /地平線を見て育ちました

1993年02月10日 ひとりぼっちのエール /あの頃へ(ライブ)

2002年07月10日 出逢い /野蛮人でいい

2002年12月04日 反省 /あの頃へ(2003 New Version)

2003年09月18日 雨のち晴れ /ショコラ

2010年03月03日 蒼いバラ /ワインレッドの心(2010ヴァージョン)

2010年05月05日 オレンジ /恋の予感(2010ヴァージョン)

2011年08月24日 結界 /田園

2013年03月06日 安全地帯XIV〜The Saltmoderate Show〜

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安全地帯(あんぜんちたい)は、1973年に北海道の旭川市で結成されたロックバンド。

来歴

アマチュア時代

1972年

北海道旭川市出身の玉置浩二は、中学2年時のクラスに転入生だった武沢豊を迎える。中学進級時から自己流でギターを弾き始めていた玉置は、武沢の大きな掌に空手を稽古していると恐れを覚えるほどであったが、それがクラシックギターを習っているからだと知り、練習曲を上手く弾く武沢に惹かれ、バンド結成を誘う。

1973年〜1975年

4月、玉置浩二(ボーカル)、武沢豊(ギター)、武沢俊也(武沢の兄、ギター・キーボード)の3人でバンド『インベーダー』を結成する。フォークグループとしてスタートし、演奏曲目はガロの「学生街の喫茶店」を得意とした。後にロックグループへの志向から『安全地帯』へ名称変更する。これは、旭川市内に路線を持つ路面電車、旭川電気軌道の電停にある安全地帯の標識が、「Victory」の頭文字「V」に似ていたことに由来する。初期のバンドメンバー・進藤による命名という。他案に『危険地帯』も候補に上ったが、「ロック=危険(な音楽)」というイメージを連想させることが平凡なため、採用しなかった。11月、玉置一芳(玉置の兄、ドラム)、宮下隆宏(ベース)が参加した。レッド・ツェッペリンに憧れていた玉置一芳の影響でロックに傾倒する。ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)第6回に初出場を果たし、第11回を除く第13回まで連続出場する。

1976年

ポプコン第12回では「昔にみたもの」で北海道代表に選ばれ、嬬恋本選会に登録される。

12月25日、札幌市内にてFMラジオ番組の生放送に『安全地帯』として初出演する。5曲を披露する。

1977年

6月、玉置一芳が脱退し、大平市治(ドラム)が加入する。12月、オールマン・ブラザーズ・バンド、レイナード・スキナードなどのサザン・ロックを演奏していた、親交の深いロックバンド『六土開正バンド(ろくどかいせい-)』を吸収合併する。これにより、六土開正(ベース、キーボード)、矢萩渉(ギター)、田中裕二(ドラム)が参加する。玉置(ボーカル)、武沢豊・矢萩(ギター)、武沢俊也・六土(キーボード)、宮下(ベース)・大平・田中(ドラム)の8名は、各楽器担当とも2名ずつの編成となった。音楽性はハードロックから、ドゥービーブラザーズ、ジャクソン・ブラウンを中心としたアメリカンロックへと幅が広がった。オリジナル曲の制作も増え、作詞は初期に玉置、後に武沢俊也が担当。作曲は玉置浩二が行なった。

1978年

2月、旭川市郊外の永山地区にある廃農家を借り、居住空間を確保した音楽専用スタジオに改装する。『ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション』(略称MFP、「音楽を耕す農夫集団」の意)と命名する。屋根と壁に囲われた空間に床を張り、防音材を四方の壁に詰めて水道を引き込んだ簡素な改装であったが、費用500万円は借金したためにメンバーはアルバイトに精を出すこととなった。一方、四周300mに一軒の隣家のないMFPでは、連日連夜、1日7〜8時間にわたって演奏練習、楽曲制作・録音に励むこととなった。なお、この音楽専用スタジオは後に脱退する宮下隆宏オーナーのフランス料理レストランに変貌し、MFPは安全地帯が設立した事務所名となる。7月、第1回ステージフライトに出場し、グランプリを獲得する。11月、田中裕二、宮下隆宏が脱退する。そのため、六土開正はベース担当へ復帰。この頃、デモテープに興味を持った金子章平(後にディレクター、エグゼクティブ・プロデューサー)がMFPを訪問し、パット・シモンズのような雰囲気を醸し出すバンドメンバーのパンチのあるストレートな想像以上の演奏に将来性の確信を得た。長期にわたる合宿により実力をつけ、数々のコンテストで入賞を果たし、北海道で実力No.1のアマチュアバンドとなった。

1979年

5月、キティレコードよりレコーディングが依頼されるが、バンドサウンドが未完成との判断で保留する。8月、カルメン・マキの旭川、札幌公演に前座として出演する。11月26日、武沢豊が乗った車に飲酒運転の車が衝突、肋骨全部を骨折する重傷を負い、入院。

1980年

4月、六土開正が病気のため入院。10月、キティレコードから再びレコーディングの依頼があり、六土は病院の特別許可を得てライブ参加。ライヴ当夜、キティレコードと仮契約を結ぶ。11月、六土が退院。12月、武沢豊が仮退院する。28日のライヴ終了後、元モップスのギタリスト・星勝を交えてミーティングを行なう。星は心身ともに優れず意気消沈しているこの時期の安全地帯の精神的支柱であった。

1981年

1月、キティレコードから正式にレコーディングが依頼される。3月、武沢俊也が脱退する。7月、井上陽水が星勝の紹介でMFPを訪問する。共演する。ロック以外に歌謡曲やポップスの幅広い音楽に自然に目を向けるように促される。その後、井上の招聘により安全地帯が上京する。東京での初ライヴを渋谷『屋根裏』で開催する。伊豆ポリドールスタジオ(後のキティスタジオ)にて、「オン・マイ・ウェイ」のレコーディングを開始し、その合間に東京、大阪、神戸のライヴハウスに出演する。8月、『'81井上陽水ツアー』にバックバンドに起用され、同行が決定する。MFPに戻り、ツアーのための練習に励む。22日、第4回ステージフライトにゲスト出演する。井上のツアーの最終リハーサルとレコーディングのため再び上京し、東京での合宿生活が始まる。9月24日、井上陽水ツアーが熊本市民会館からスタートし、12月10日の東京・渋谷公会堂の最終回まで全国23カ所の公演に参加する。ツアー衣装は、当初無給のため、渋谷のジーンズメイトで購入したものを履き、鉢巻きというスタイル。ツアーの経験から、自信のあった練習量、実力のある多くの同等バンドの存在に気付き挫折感を味わうが、さらに練習に励む。11月、「オン・マイ・ウェイ」がブリヂストン・スノータイヤのCMソングに起用され、北海道、東北地方にて放映される。

メジャーデビュー

1982年

1月24日、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に井上陽水のバックバンドとして初出演する。井上陽水の春・夏のコンサートのサポート・ミュージシャンとして参加し、秋から翌年1月までの全国ツアーのバックバンドを務めた。2月25日、シングル「萠黄色のスナップ」でデビュー。4月、キティレコード(現・ユニバーサルミュージック)と正式契約。メンバーは東京に転居して合宿生活を開始するが、大平市治が脱退する。田中裕二が再加入することで、デビュー以後の安全地帯の5人のメンバーが確立した。5月、東京・渋谷『エッグマン』でライヴ。7月、井上陽水のバックバンドとして、東京・日比谷野外音楽堂、大阪城野外音楽堂のコンサートをサポートする。8月上旬、札幌市郊外で開催されていた『北海道博覧会』特設会場に、FM北海道の招きで出演する。下旬、1st.アルバム『安全地帯I Remember to Remember』のレコーディングを伊豆ポリドールスタジオで開始し、メンバーの合宿生活を終える。玉置は、東京・目黒の四畳半一間のアパートを借家。一人暮らしに馴染めず、売り上げの芳しくないレコード、コンサートが続くことも相まって、自暴自棄に陥りそうになる。苦しいなりにも自信は失っておらず、テレビコマーシャルか番組主題歌に起用される機会を窺っていた。10月25日、2ndシングル「オン・マイ・ウェイ」を発表し、ブリヂストン・アイスコンパウンド・イメージソングに起用された。11月、井上陽水のツアーに翌年1月まで同行した。

1983年

1月25日、1stアルバム『安全地帯I Remember to Remember』を発表する。その後、サントリーから発売された「赤玉パンチ」のCMソングに起用された4thシングル「ワインレッドの心」が大ヒット。一躍全国にその名が知れ渡る。

1984年

「恋の予感」、「熱視線」等の楽曲を立て続けにヒットさせる。

1985年

「悲しみにさよなら」が大ヒット。TBSの『ザ・ベストテン』、日本テレビ『ザ・トップテン』年間第1位に輝き、同年のNHK紅白歌合戦出場を果たした。また、FNS歌謡祭では史上初で唯一となる2年連続で最優秀歌唱賞を受賞した。

1986年

8月、神宮球場においては初となるコンサートを井上陽水と共に行う。12月、アナログ盤にして3枚組となるアルバム『安全地帯V』を発売。また、「ワインレッドの心」「恋の予感」「Friend」などが香港でカバーされ、それぞれヒットした。

1987年

安全地帯の活動の合間を縫ってソロでの活動も進められ、夏に玉置自身初のソロでのシングルとアルバムをリリースする。

1988年

秋、香港コロシアムでのコンサートを最後に活動休止を宣言。その原因として、メンバー個々の活動が活発化し、6thアルバム『安全地帯VI〜月に濡れたふたり』以降の音楽性の追求方向のメンバー間の相違によるとされる。宣言後の5人は約2年間、個々の活動を行なう。

1990年

7月、約2年ぶりのオリジナルアルバムとなる『安全地帯VII〜夢の都』をリリースする。収録曲の「この道は何処へ」は1991年冬季ユニバーシアードテーマ曲。

1991年

12月、オリジナルアルバム『安全地帯VIII〜太陽』をリリースする。

1992年

12月、アコースティックスタイルでのコンサートツアーの終了時点で、実質的に長期活動休止に入る(ただし解散ではない)。

2度の長期活動休止

1993年

2月10日、23rdシングル「ひとりぼっちのエール」がリリースされる。活動休止を境に玉置は、ソロと俳優業を中心とした活動に移行し、武沢豊はプロデュース業に専念、他のメンバーも個々の活動に入る。この時、安全地帯の所属会社がキティレコードからソニー・ミュージックエンタテインメントに移るが、安全地帯名義の活動は約10年間休止したままだった。

1994年

武沢が脱退を発表。メンバー4人は玉置浩二のソロプロジェクトで当分の間活動することになる。玉置一芳(ドラム)、宮下隆宏(ベース)が一時的に復帰。しかし、実質的には玉置ソロ活動のサポート・ミュージシャンが帯同して、4名の活動となった。

1998年

7月19日、旭川市の野外ライブ『旭川ライブジャム'98in北彩都』で約5年ぶりにメンバー5人全員が揃う。

2001年

この頃より安全地帯としての音楽製作を本格的に再開する。

2002年

7月10日、9年ぶりに24thシングル『出逢い』がリリースされる。発売前日、5人揃って記者会見が行われた。8月7日に9thアルバム『安全地帯IX』が発売され、9月からツアーが始まったが、武沢は怪我のため参加できなかった。

2003年

10月22日、10thアルバム『安全地帯X〜雨のち晴れ〜』がリリースされる。ツアーでは5人全員が揃い、80年代の活動の場であったライブハウス「Shibuya eggman」でもライブを行う。12月、ツアー全日程を終了。ツアー終了後約6年間、グループは再び長期休止状態となる(この時も解散扱いとはしていない)。

「完全復活」〜現在

2010年

1月8日、前年秋からメンバーによる楽曲製作の合宿を極秘裏に行っていたことが、フジテレビ系情報番組『とくダネ!』で放映され、27thシングル「蒼いバラ / ワインレッドの心(2010ヴァージョン)」のリリースと3月のイベント出演が公表された。所属レコード会社はユニバーサル ストラテジック マーケティング ジャパンに移籍(実質的には復帰)した。同日に「蒼いバラ」、2月3日にカップリング曲の「ワインレッドの心 (2010ヴァージョン)」の着うた配信がスタート。7月からは7年ぶりとなる全国コンサートツアーを開催し、9月下旬から10月上旬にかけて台湾・香港・韓国の海外公演も決定した。なお、9月12日に行われた福岡市での公演は、玉置浩二が体調不良の状態でステージを敢行したものの、観客とのトラブルが生じたため、コンサートは中止扱いとされた。全国ツアー最終の10月5日・6日は、18年ぶり24回目となる日本武道館で公演を行った。

2012年

7月1日、Ustream番組『ソルトモ!』にて、ソニーへの再移籍ならびにデビュー30周年を節目とした初のレーベル『SALTMODERATE』の発足を発表。8月22日にはグループとして初めてセルフカバー曲中心のアルバムを発売した。9月にはいわみざわ公園野外音楽堂キタオンと東京国際フォーラムでのライブを敢行。その模様が収録されたライブDVDは12月に発売された。12月17日から12月25日にかけて、グループとして初めてのクリスマスディナーショーを開催。

2013年

14thアルバム『安全地帯XIV〜The Saltmoderate Show〜』を発売。レーベル発足後初となる全国ツアー開催。ROCK IN JAPAN FESTIVALへ参加。その後韓国・香港・台湾でのアジアツアーを挙行。

メンバーと担当楽器

玉置浩二(たまき こうじ、1958年9月13日 - ) - ボーカル、ギター、パーカッション、コーラス

矢萩渉(やはぎ わたる、1957年6月27日 - ) - ギター、ベース、コーラス

武沢豊(たけざわ ゆたか、「佑昂」「侑昂」とも。1958年5月16日 - ) - ギター、コーラス

六土開正(ろくど はるよし、1955年10月1日 - ) - ベース、ピアノ、キーボード、コーラス

田中裕二(たなか ゆうじ、1957年5月29日 - ) - ドラムス、パーカッション、コーラス


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