小档案
宮本浩次(みやもと ひろじ、1966年6月12日 - )
東京都北区赤羽出身。ボーカル&エレクトリックギター&アコースティックギター担当。主な使用機材は「TANGEMAN STRAT」「N.Y LAB TELE」「 K.Yairi」「六絃」。
石森敏行(いしもり としゆき、1967年3月18日 - )
東京都北区赤羽育ち。エレクトリックギターを担当。主な使用機材は「Gibson Les Paul」もしくは「fender Stratocaster」「moon TELE」。愛称は「石君(いしくん)」。宮本との共作クレジットは、ガンダーラコンビネーション。デビュー当初は宮本と同じくらい話すキャラであった。宮本と特に仲がよく、ライブ中に宮本に一番いじられることもある。さらに宮本は頻繁に石森の家を訪問するという。「おでこが広くなってくる」とよく宮本に叩かれていたせいか一時期丸坊主になるも、2008年6月28日の野音ライブではオレンジ色の頭髪を披露し、その後幾度かの変化を経てエピック時代を思わせるパーマをかけた髪形になった。非常に険しい形相でガニ股でギターを弾いているが、これは「一生懸命弾いてるから」とのこと。体力を維持を心掛け、ジムに通い水泳をしている。このため筋肉質で引き締まった体をしているが、「エレファントカシマシ5」の時期には、80kgを超える体重だったという。既婚(三度目)。身長173㎝。
高緑成治(たかみどり せいじ、1966年4月15日 - )
東京都中央区月島出身。エレクトリックベースを担当。主な使用機材は「TopDog J.Bass」。愛称は「成ちゃん(せいちゃん)」。宮本との共作クレジットはダンディーブラザーズ。常に寡黙で顔の彫が深く、味のある顔立ち。バンド結成以前に何度も宮本らのライブを見に行ったりしており、「かっこいいな」と思っていたようで、バンドに誘われた時、宮本に「やる?」と訊ねられ、「やる」と即答した。「ROOTS」で暴露された話によると、ある日、宮本と冨永が高緑の家に遊びに来た際に、無視して寝るつもりであったが父親が「成治、宮本君たちが来たぞ!」と大声で呼んだため、「来ても起こすなって言っただろ!」と怒鳴り返し親子げんかになった。気まずくなった宮本らはその日は帰ったという。宮本と冨永は「あれは困った」と、今では笑い話になっている。実家は銭湯だったが、月島周辺の再開発の波に呑まれ現在は閉店。メンバーで禁煙の話になったとき「俺はとっくにやめたよ」と言い、その代り葉巻を吸い始めたとのこと。STARTING OVERのジャケット写真でオールバックにした髪形を披露、以降もオールバックを続けている。既婚。
冨永義之(とみなが よしゆき、1966年4月14日 - )
東京都北区赤羽出身。ドラムスを担当。愛称は「トミ」。パワフルなドラマー。石君の次によく宮本にいじられ、しばしば照れくさそうな表情を見せるが、少年時代は今とは全く逆で、宮本曰く『危ない子』だったとのこと。少年時代の武勇伝は多く『鉄塔などに登ってぶら下がる』『台風の日に海に飛び込み、「石君達もおいでよー!」と叫ぶ』『人通りの多い急坂をスケボーで走る』など、かなり活発な少年であり、中学時代は入学初日に通学鞄を潰し、学ランのボタンを外して登校するなどかなりのヤンチャ者で、かなりモテてたという。宮本や石森が洋楽のロックミュージックを聴き始めたのは冨永の影響であり、冨永も楽器をしていた兄の影響を強く受けている。酒を飲むと記憶が飛ぶらしい。2006年に慢性硬膜下血腫を発症するが手術で無事完治。既婚。
メンバーは偶然にも全員次男であり、「それが長く続くきっかけの一つになったかもしれない」と宮本は語っている。それ以外にも、宮本とメンバーの厚い信頼関係(特に宮本は石君に関して「非常に尊敬している」と述べている)などもバンドが長く続く要因とも言えるであろう。
小简介
彼らの音楽はROCKIN'ON JAPANの編集長山崎洋一郎や渋谷陽一らに常に高く評価されている(ちなみにこの両名は『CHERRY BOYS』と称してポニーキャニオン以降のアルバムのクレジット欄にSpecial thanksとして記されることとなる)。 また影響を受けたミュージシャンは数多く、2003年にはトリビュートアルバム『花男』が発売された。 日比谷野外音楽堂でのコンサートは1990年以来毎年行われており、年に一度の風物詩となっている。 公式ファンクラブは「PAO」である。
大事件
1999年、フェイス傘下のバリアフリーレーベルとポニーキャニオンとの契約が終了したのに伴い、バリアフリーレーベルごと東芝EMIに移籍。1999年にはシングル『ガストロンジャー』、2000年には、ほぼ宮本のソロアルバムとも呼べる打ち込みを多用した『good morning』を発表。またこの時期の宮本は音楽活動と平行して執筆活動やドラマ『フレンズ』出演などを精力的にこなし多彩な才能を発揮した。
2002年には小林武史をプロデューサーに迎えたアルバム『ライフ』を発表。緻密なアレンジによる、穏やかで色彩豊かな世界を作り上げた。しかし同年末には再びセルフプロデュースに戻り、よりシンプルなバンドサウンドへと回帰した、初のミニアルバム『DEAD OR ALIVE』を発表。またこの頃から「音楽バラエティ番組での面白いキャラクター」へと定着したことへの反省から、メディアへの露出を極力控えるようになる。
2003年にはセルフプロデュースによるアルバム『俺の道』を発表、バンドサウンドへの回帰は決定的なものとなる。
2004年にはシングル『化ケモノ青年/生きている証』、熊谷昭を共同プロデューサーに迎え、アルバム『扉』を発表。そのアルバムの製作過程を密着取材したドキュメンタリーフィルム『扉の向こう』(是枝裕和プロデュース作品)は、テレビやミニシアターで上映され、DVDでも発売された。同年9月にはアルバム『風』を発表。
2005年には初のライブアルバム『野音 秋』『日本 夏』をそれぞれファンクラブやインターネットを通じて発売。
2006年3月に冨永義之が慢性硬膜下血腫を発症、3月2日に手術し完治。3月29日、佐久間正英プロデュースによるニューアルバム『町を見下ろす丘』を発売。その際、「シグナル/今をかきならせ」が初の配信限定シングルとなった。
2007年よりユニバーサルミュージックへ移籍。これについて宮本浩次は「新しいレコード会社のスタッフと出会うことにより、バンド内の空気も攪拌され新たな気持ちで活動することが出来るようになった」等と述べている。
11月21日に移籍第一弾シングル「俺たちの明日」をリリース、同曲はYANAGIMANがプロデュースを手がけ、ハウス食品の「ウコンの力」のCMのタイアップ曲となっている。またC/Wの「さよならパーティー」は蔦谷好位置がプロデュースを務めている。所属レコード会社の意向もあり、東芝EMI所属時代の後期に比べると、積極的なプロモーション活動を行うようになっている。
2008年1月1日にシングル「笑顔の未来へ」を発表。同曲は引き続き蔦谷好位置がプロデューサーとなっている。1月30日にレーベル移籍後初のニューアルバム「STARTING OVER」を発売。さらに3月5日には亀田誠治をプロデューサーに迎え、桜をモチーフとした作品「桜の花、舞い上がる道を」を発売。10月1日に引き続き亀田誠治プロデュースによる「新しい季節へキミと」を発売。
2009年3月18日にはシングル「絆」を発売。この作品は映画「相棒」のスピンオフ作品である「鑑識・米沢守の事件簿」の主題歌となる。 同年4月29日にはアルバム「昇れる太陽」を発表し、オリコン週間チャート3位を獲得。
2009年9月16日、日比谷野音でのライブが20周年を迎えることを記念し、移籍前の3社からそれぞれ選曲したベスト・アルバムを3枚同時に、また2009年4月11日に8年ぶりに行われた武道館ライブを完全収録したDVD「桜の花舞い上がる武道館」を同時に発表。
2009年9月30日、廃盤・生産中止となり入手困難となっていたアルバム「奴隷天国」、DVD「コンサート1998 日本武道館"風に吹かれて"」「ビデオクリップ集 "クリップス" 」、ポニーキャニオン時代のオリジナルアルバム3作のHQCD仕様、当初CCCDで発売されていた「DEAD OR ALIVE」「俺の道」のCD-DA盤が、各社より連続再版、発売された。