小档案
姓 名 一青窈( ひととよう)
別 名 顏窈、窈ちゃん、一青っち
血 统 中日混血
出生日期 1976年9月20日
出 生 地 台湾
血 型 O型
身 高 155cm
职 业 歌手、作词家、演员
毕业学院 庆应义塾大学环境情报学部
经纪公司 EMI RECORDS (2013年 -)
事 务 所 株式会社 大家(ターチャー)
代表作品 《もらい泣き》《ハナミズキ》
主要成就 第17届日本金唱片大奖
第47届唱片大赏作词奖
第36届有线大赏最优秀新人奖
BEST HIT 歌谣祭最优秀新人奖
艺人简介
一青窈(1976年9月20日-),日本流行音乐歌手,她的母亲是日本人,父亲则是台湾人,本名颜窈,一青是母亲的旧姓。她能说三种语言: 日语、英语以及国语(但并不流利)。
她在台北完成了幼稚园学业,然後搬到日本定居。在中学时期,在自组的团体(2人合唱+1人弹奏)中担任演唱。於庆应义塾大学环境情报学系毕业前,她曾经参加一队无伴奏合唱的乐队「K.O.E.」。直至认识了日本无伴奏合唱乐队Gospellers的队员北山阳一,发掘了歌唱天份, 北山阳一建议她可以尝试作编曲出道。
之后,她持续在日本各地巡回街头演唱,同时亦有为其他乐团作和音歌手或幕后演唱。
2001年加入了Columbia Music Entertainment唱片公司,同年,也演唱了真·三国无双2上的片尾曲《生路》。
2002年一青窈推出的第一张单曲《もらい泣き》(《陪哭》),曾经在Oricon唱片公信榜停留长达67周,她同时并以此曲获得了当年日本大部份颁奖礼的最佳新人奖。她的歌在许多世代中都相当流行。她的歌唱方式,被拿来和冲绳传统歌曲风格来比较,影响了许多人。作为台裔日籍歌手,亦开始向台湾发展。
在台湾,她以在一个啤酒广告上演唱一首台湾话传统歌曲而著名。
2009年,从原事务所Columbia Music Entertainment唱片公司移籍至For Life Music。
プロファイル
名 前 一青窈( ひととよう)
別 名 顏窈、窈ちゃん、一青っち
血 統 中日ハーフのハーフ
誕 生 日 1976年9月20日
出 身 地 台湾
血 液 型 O型
身 長 155cm
職 業 歌手、作詞家、俳優
卒業学園 慶應義塾大学環境情報学部
レーベル EMI RECORDS (2013年 -)
事 務 所 株式会社 大家(ターチャー)
代表作品 《もらい泣き》《ハナミズキ》
アーテイスト紹介
一青窈(ひとと よう、1976年9月20日 - )は、女性歌手・作詞家・俳優。
姉は、舞台女優の一青妙(ひとと たえ)。
父は台湾人、母は日本人。父は九份の金鉱経営で成功し、台湾の5大財閥に数えられた顔一族の長男・顔恵民。戦前から戦後にかけて日本に長く滞在していた父と母が出会い、台湾で妙と窈が生まれた。
日本語・英語・北京語を話せるトライリンガルである。姓の「一青」は母の出身地である石川県に地名としても存在する(石川県鹿島郡中能登町一青、2005年2月28日までは石川県鹿島郡鳥屋町一青)。姓の一青と同じ名前の吟醸酒「池月 一青(ひとと)」が石川県鹿島郡の鳥屋酒造株式会社から発売されている。亡くなった母親について、「二十一世紀の音霊」にて「想いを巡らすだけで涙がでてくる」と述べており、「大家」・「ぱぱへ」など父親への想いを歌った曲は数曲あるのに対し、母親への想いを歌った曲は9thシングル『つないで手』に収録されている「ささやき並木」が初めてである。
台湾のR&B歌手デヴィッド・タオ(陶喆)の熱烈なファンで彼の影響も受けている。少女時代からの中森明菜のファンであり、現在でもカラオケではよく中森の曲を歌う。
デビューする前は車椅子利用者向け情報誌『WaWaWa』で詩を提供したり、同誌編集長・阿部恒世とともに福祉施設でのライブ活動を行ったりしていた。ゲーム『真・三國無双2』で全中国語詞の楽曲『生路〜CIRCUIT〜』をエンディングテーマとして提供。同曲は同ゲームのサウンドトラックCD『真・三國無双 究極音盤』に収録されており、後にシングル『江戸ポルカ/夢なかば』のカップリングでタイトルを『生路〜MAZE』に変え一部日本語に直して入っている。『真・三國無双4Empires』において新たなヴァージョンの『生路』がエンディングテーマに使用されている。
身長155cm。バスケットボール部には小中高一貫して所属し、動きが素早かったことから「ジジ(『魔女の宅急便』に登場する黒猫)」というあだ名を付けられた。現在でもバンドメンバーとバスケットボールをすることがある。
尊敬する人物は井上陽水、根本敬、阿久悠や谷川俊太郎。座右の銘は「来る者拒まず、去る者追わず」。
音楽の原点として、幼少期に父親から送られた「ディズニーのお話しレコード」をあげている。母親が闘病していた際に母親とともに行ったミュージカルから音楽療法に興味を持ち、大学入試時には音楽療法についての論文を書いた。病院に野外音楽堂を建てるのが夢であるという。音楽プロデューサーの武部聡志は「一青の詞は日本一」と評した。作詞はすべて実体験に基づいているという。
環境問題に強い関心を持ち、ap bank fesなどの環境問題をテーマにしたライブに積極的に参加し、その知識や環境問題への姿勢からap bank dialogueでは出演アーティストの中で唯一ゲストとして出演する。
建築に興味があり、『ダ・ヴィンチ』などの誌上で坂茂、藤森照信、隈研吾といった幾人かの著名な建築家との対談を交わしている。
普段から自転車に鍵を掛けず自転車が盗難に遭うと「私が強く信じていなかったから」と考えることにしており、現在まで6台盗まれているという。
2004年10月、「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録が決定したことを記念して、熊野古道(世界遺産)に程近い和歌山県・熊野本宮大社旧社地大斎原特設ステージにて、「一青窈 in 熊野 花逢娘(かほうにゃん)」と題して記念コンサートが行われた。2005年8月には、築130年の伝統を誇る京都・祇園甲部歌舞練場で、一夜限りのライブ「夢街バンスキング〜はいらんせ〜」を開催。
来歴
中国語の漢字名は顏窈(イエン・ヤオ)で、「顏」は父親の姓。「一青」は母親の姓。
台湾で生まれ、幼稚園卒園後に父を台湾に残し、母・姉と日本で生活することとな。小学生2年の時に父が癌で死去。以降、母の姓の一青を名乗る。小学校高学年の頃に宮沢賢治の詩に触発され、詩を書き始める。初等部から森村学園に通い、美術部とバスケットボール部に所属、生徒会では書記を務める。高校生の時に母も癌で亡くす。
半年の浪人期間を経て、AO入試で慶應義塾大学環境情報学部(SFC=湘南藤沢キャンパス)に入学。慶應義塾広告学研究会、ジャズ研究会、K.O.E.(アカペラサークル)に所属し、ストリートライブを行うなどした。K.O.E.で現ゴスペラーズの北山陽一と出合い、自作の詩を見せたところ「お前の詩は面白い。FAXしてくれたらいくらでも曲を付けるから歌え」と提案され、以降自分の詩で歌うこととなった。
その後、福祉イベントで歌っているところをスカウトされ、2002年に「もらい泣き」でデビュー。同曲がヒットし、ファーストアルバム『月天心』で大ブレイク。数々の音楽賞や新人賞を受賞する。2003年、第54回NHK紅白歌合戦に初出場。2004年、「ハナミズキ」が大ヒット。映画『珈琲時光』主演で女優デビューし、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。2006年、初のベストアルバムを発表。
2006年、日本人アーティストとして初めて、カーボンオフセットライブを逗子海岸の音魂(Otodama Sea Studio)で行い、現在(2009年)まで毎年継続している。ベストアルバム『BESTYO』の初版もカーボンオフセットしている。台湾でもCD・DVDが発売されており、『もらい泣き』『大家』『月天心』のジャケットは台湾オリジナル仕様となっている。台湾のキリンビールのCMにも出演し、台湾の愛唱歌『望春風』が使われた。
2008年12月には、岩松了演出の音楽劇「箱の中の女」の主演を務めた。
2007年1月、写真週刊誌『フライデー』およびそれを後追いした一部スポーツ紙・週刊誌などで、小林武史との不倫疑惑が報じられた。
2015年4月27日、ギタリスト・山口周平と結婚し、妊娠4カ月であることを、マスコミ各社宛ての直筆メッセージで明らかにした。11月8日、第1子男児出産を公表。