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风格
#都市流行
地区
Japan 日本

艺人介绍

小档案

西城 秀樹(さいじょう ひでき、本名:木本 龍雄(きもと たつお)、1955年4月13日 - )は広島県広島市出身の歌手・俳優である。

小简介

広島駅近くの東蟹屋町(現東区東蟹屋町)に生まれる。血液型はAB型。父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み、ジャズスクールに通ってドラムを勉強した。5年生の時に兄とエレキバンドを結成。山陽高等学校時代、ジャズ喫茶出演時にスカウトされ、家族の反対を押し切り一人で上京。歌、芝居、踊りのレッスンを続け、芸能事務所(芸映)に所属。山陽高校から明大中野高等学校定時制へ転校。高校在学中にビクター音楽産業より歌手デビュー。

大事件

1972年3月25日にシングル『恋する季節』で「ワイルドな17才」のキャッチフレーズと共にデビュー。男らしくてセクシーなマスクが女性ファンを魅了し、人気急上昇(愛称は片仮名の「ヒデキ」)。『チャンスは一度』から歌謡界にアクション旋風を巻き起こす。

1973年、『情熱の嵐』が初のベストテン入りを果たし、一躍トップアイドルになる(郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれる。のちに沢田研二の最大のライバルともなる)。続く『ちぎれた愛』、『愛の十字架』が連続してオリコンのヒットチャートの第1位に輝く。絶唱型と言われる歌唱法により聴く者を圧倒し、その歌唱力が評価され、初の日本レコード大賞歌唱賞を受賞する。

1974年、『薔薇の鎖』のマイクスタンド・アクションが人気を呼び、『激しい恋』の“♪やめろと言われても”の歌詞が流行語になる大ヒット。オリコンの年間シングルチャートの第8位に輝く。続く『傷だらけのローラ』が海外でもヒットチャートの第2位にランクインされ、日本レコード大賞で史上初となる歌唱賞を2年連続受賞する。また第25回NHK紅白歌合戦にトップバッターとして初出場を果たす。さらにホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、映画『愛と誠』に主演と俳優としても活躍する。

1976年の『君よ抱かれて熱くなれ』から1977年の『ボタンを外せ』までは、作詞:阿久悠、作曲:三木たかしのコンビによるヒット作品が続く。1976年の『ジャガー』、1978年の『炎』により東京音楽祭の世界大会に出場した。

1979年、『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』が大ヒット。“Y.M.C.A.”の4文字を全身で表現したパフォーマンスが日本全国を巻き込む一大ブームとなる。『ザ・ベストテン』で2週に渡り最高得点である9999点、番組史上唯一の満点を獲得する。続く青春讃歌・第2弾として発売された『ホップ・ステップ・ジャンプ』、バラード曲の『勇気があれば』もヒットし、その年の日本歌謡大賞、FNS歌謡祭グランプリなど各音楽賞を総なめにする(ただし、日本レコード大賞はジュディ・オングの『魅せられて』)。

ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年までの10年間、毎年恒例となっていた真夏の大阪球場コンサートも、「親衛隊」と称される熱狂的なファンで常時超満員となった。屋外音楽イベントとしては画期的なもので、ゴンドラの使用など派手な演出も話題となった。また1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演した。1978年からは後楽園球場でも恒例のコンサートを開催している。

1981年、『リトルガール』でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)の快挙を達成し、さらに1982年の『南十字星』のヒットにより、総シングルレコード売上枚数が1000万枚を突破する。また1975年の「ブロマイド」年間総売上実績でトップに立ち、以降1976年、1978年、1979年も男性歌手部門で第1位となり、歴代の通算第1位獲得月数で新記録を樹立している。

NHK紅白歌合戦は1974年から1984年の『抱きしめてジルバ』まで11年連続出場、日本レコード大賞では1976年の『若き獅子たち』により3度目の歌唱賞を受賞、金賞は1978年の『ブルースカイブルー』から1983年の『ギャランドゥ』まで6年連続受賞する。『ザ・ベストテン』には番組の放送が開始した1978年の『ブーツをぬいで朝食を』から1986年の『腕の中へ』まで22曲(154週)登場した。

1973年から12年間、ハウス食品の『バーモントカレー』のCMに出演し“ヒデキ、感激!!”、“ヒデキ、ご機嫌!!”、“ヒデキ、満足!!”など数々のキャッチコピーがお茶の間の人気を呼び、国民的アイドルとして大人から子供まで幅広い世代の支持を得る。

元来、スポーツマンで、水泳、走高跳などを得意とし、全国ネットでテレビ中継された芸能人による水泳大会や運動会、『8時だョ!全員集合』の体操コーナーなどで活躍し、随処に運動神経の良さを覗かせた。(1983年頃より趣味としてスキューバダイビング(指導員資格所有)、ゴルフなどにも勤しんでいる。)

一般の女性ファンのみならず、山口百恵や岩崎宏美など同世代の女性アイドルにもファンが多かった。

芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦したほか、自らの名前を冠した新人コンテスト『ヒデキの妹・大募集』で河合奈保子と石川秀美の1980年代を象徴する女性アイドルの発掘に成功するなど、プロダクション・マネジメントの面でも大きな貢献を果たした。

1983年、スタッフと共に芸映を円満退社し独立、有限会社「アースコーポレーション」を設立する。その第1弾のシングルとして『ギャランドゥ』を発売する。それ以降、グラハム・ボネットの『Night Games』、ワム!の『Careless Whisper』、バリー・マニロウの『In Search of Love』、『It's All Behind Us Now』をカヴァーする等、本格的なロック系、バラード系の曲が発売シングルの主流になっている。1990年代になると若きロック・ミュージシャン達が挙って西城のコンサートを観賞に訪れ、“ロック・アーティストの憧れのスターNo.1”と言われる様になる。

1981年に香港で初のコンサートを開催して以来、シンガポール、中国本土、韓国、台湾などアジア各国でコンサートを行い、絶大な人気を博している。

1991年、アニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ『走れ正直者』、1999年に『∀ガンダム』の主題歌『ターンAターン』、さらに2002年には『ベイベーばあちゃん』の主題歌『Everybody Dance』を唄った。

2000年、『最後の愛』を最後にビクター~RCA~BMG系から、ポリドールレーベルへ移籍し『Bailamos』をリリースする。以降ユニバーサルJ、NAYUTAWAVEとユニバーサル傘下の各レーベルから楽曲をリリースする。

2003年、85枚目のシングルとなる新曲『粗大ゴミじゃねぇ』発表直後の韓国での公演中、脳梗塞で倒れた。死を覚悟しての闘病の末、奇跡の生還を果たす。リハビリから復帰後、活動を再開し、復帰会見では時折涙を流した。ライブなどではバラード中心の選曲で歌声を抑え気味にしている。

2005年、パチスロメーカー「オリンピア」から、タイアップ・パチスロ『ヒデキに夢中!!』がリリースされ、年末にはベストアルバム『西城秀樹 スーパーベスト』が発売された。

2006年9月より「東京スポーツ」で『西城秀樹歌手生活35周年 奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!』が連載され、9月27日には、3年ぶりの新曲『めぐり逢い』/『Same old story』が両A面で発売された。

2007年3月22日、香港の「IFPI Top Sales Music Award」に、約35年間の東アジアの音楽業界の成長に大きな影響を与えた日本人歌手として招待された。また9月24日には、日中国交正常化35周年と中韓国交開始30年の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された「第9回アジア国際芸術祭」に出演し、『傷だらけのローラ』と『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』を8万人の観客の前で熱唱した。この模様は10月13日、中国全土に放映された。


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